冷たい夜の空気の中を、椿は短刀を握りしめ駆け出した。
辺りには曇天から降りてきた白く冷たい結晶が舞っている。
この村で初めて迎えた、初雪だった。
 椿は勘の良い李漢に悟られぬよう、かなりの距離を取っていたものの、李漢の向かう先に見当はついていたので、迷わずに進んだ。
村のずっと外れの、深い森の奥。
昼間でも日の光の届かない、深く暗い森の奥だ。

 森の中に足を踏み入れると、湿った枯れ葉が地面を覆っていた。
足音を立てぬよう、慎重に足を進めると、ふと、祖父と夜中に駆け回った記憶が蘇ってきた。
 祖父の孝達は厳格な人だった。
甘えも妥協も一切許さない、本当に厳しい人だった。
毎晩夜中に起され、人けのない裏山で、護身のために素手の武術はもちろん、長剣や短剣、槍や縄標などあらゆる技を徹底的にたたきこまれた。
昼間は学問を、夜は武術や野営術を、祖父は自分をたった一人でも生きていける野生の獣としてつくり上げたのだ。

 激しく長剣が閃き打ち合う音が聞こえ、椿は立ち止った。
大木の陰に隠れて様子をうかがうと、李漢が数人の大男たちに囲まれているのが見えた。
背中に嫌な汗がにじみ、手がぬるぬると滑る。
刹那、李漢は光のように長剣を閃かせ、男を刺殺した。
すぐさま仲間を殺された男たちが李漢に群がり、椿からは李漢が見えなくなってしまった。
椿は息を飲んだ。
李漢は強い。
何度もこうして夜を過ごしてきたはずだ。
大丈夫、李漢があんな破落戸無勢にやられるわけない。
そう思っても、心臓は激しく脈打って収まってくれそうにない。
頭の芯が鈍くしびれ、体が小刻みに震えていた。

 椿は動かなかった。
いま出て行っても、足手まといになるだけだ。
それどころか見つかったら確実に殺される。
椿は無力だった。
ただただこの時間が無事に過ぎてゆくのを、祈ることしかできなかった。