椿は夜中たびたび、李漢が外に出ていく気配で目を覚ました。
そういう時の李漢は、大抵何とも形容し難い、重苦しい空気を纏っていて、それは決して心地よいものではなかった。
椿は毛布を頭まで引き上げて丸まって過ごすか、両手で自身の身体を抱きしめて夜が明けるのを待った。
そうしてしらじら夜が明け始めるころになると、何事もなかったかのように起き出して、いつもの日課を黙々とこなしていくのだった。

 そういう日は李漢がどろどろになって帰ってくるので、特別に風呂を沸かして待っていた。
李漢が何も語らないので、椿も尋ねることはしなかった。
黙って風呂の火の番をしながら、李漢がたてる水音に耳を傾け、その胸中を探ることに留めた。
椿は李漢が人を殺しているのだ、と思っていた。
李漢の背中に、長い一本の刀の傷跡があるのを見たときから、椿のその思いこみは消えなかった。
椿は目を閉じた。
耳の奥によみがえってくる祖父の声に、心がジクリと動いた。

『お前の母はお前の身代わりに盃を取ったのだ。
お前の父が賜った祝いの杯には、心を狂わせる恐ろしい毒が盛られておった。
廉、お前の命を狙う者はたくさんおる。
事情は今は詳しくは言えん。お前が知るにはまだ早すぎる。
だがお前の、椿孝廉の命にそれだけの価値があるのだ。
廉、お前は賢い。
生きるために何も気づかぬふりをしろ、欺き、出し抜け。
忘れるな、ここは毒蛇の巣窟ぞ』

優しかった母に拒絶されたあの日、椿は祖父の腕の中で、泣くことをやめた。

 穏やかな表情で朝餉を頬張る李漢が、椿は好きだった。
祖父と繋がりがあるとはいえ、直接には全く関係のない娘である自分を拾い上げ、こうして無償で温かい居場所と安らぎを与えてくれる。
それがどれだけ有り難く、どれだけ幸せなことかは、身に染みて理解していた。
もし万が一、李漢が死んでしまうようなことがあったら、自分はどうすればよいのか、椿には何も思いつかなかった。