紗織は自分の胸に手を当てると、大きく深呼吸をした。
この張りつめた空気...
彼女の心臓の鼓動が、直次にも移り伝わるように感じる。
唇を噛んだり、強く握り拳を作ったりして、なかなか話し出そうとしない彼女を見て
「紗織、今すぐ言わなくてもいいんだぞ...」
直次は優しく声をかけた。
でも、紗織は首を横に振った。
時計の秒針の音だけが、二人の空間を支配する。
この状態になってだいぶ経つが、紗織のタイミングを待つしかない。
空の色は、光を含んだ色のグラデーション。
幕が開き『今日』という日のスポットライトが街を照らしだす。
「徹夜しちゃったね…」
紗織の呟きに直次は「ああ」と返事するだけだった。
「コーヒー淹れるね」
紗織は立ち上がると、キッチンに向かった。
紗織は二人分のコーヒーをテーブルに置くと、また直次の隣に座った。
「先生、今まで本当にありがとう」
直次の顔を見ながら微笑む彼女の目には、涙でいっぱいだった。
「どうして泣いてるんだよ?」
その涙は、過去の糸を掴んだ『感謝』の涙なのか?
それとも、過去を知ってしまった『後悔』の涙なのか?
直次は不安だった。
「先生…多分アタシ、これで良かったんだと思う」
「何が?」
「記憶を戻す治療をしたこと」
「本当に、そう思ってくれてるならいいけどな…」
「本当よ!本当…」
「それなら良かったけど」
直次はコーヒーを一口飲んだ。
『良かった』という割には、浮かない表情の紗織が気になる。
記憶を取り戻す治療は、消してしまいたい記憶も呼び起こしてしまう。
都合良く『ここだけ』とはならない。
紗織は、消えたままで良かった記憶も、見つけてしまったのかもしれないな…
すっかり明るくなった外の景色と真逆の空気が、直次の周りを取り巻いていた。
こんな時までも、タバコを吸いたいと思う自分はバカなのか?
こんな時だからこそ、タバコを吸って落ち着きたいと思う自分は、単なる『逃げ』なのか?
紗織より遥かに度胸のない、情けない男だ。
「先生…私…全てを思い出しました」
紗織は静かに話しだした。
「先生…私をここまで育ててくれて、本当に感謝してます。先生がいなかったら、どうなっていたか…」
「なんだよ、頭下げるなよ。父親として娘を育てるのは当然だろ」
「形上は親子です。でも本当の親子じゃない。先生は他人の子供を半ば強引に育てさせられたんですから」
「強引とは思ったことない。何でそう考える?」
「だって、施設に入れば済む事だったじゃないですか」
直次は言葉が出なかった。
「しずちゃん先生がやってくれたら、何も先生の手を煩わすこともなかった…」
「煩わすなんて…紗織と生活して嫌な思いなんて、一度も無いんだよ。紗織がいてくれて、家族愛を知らない俺は初めてそれを知ったんだから」
何でそこまで言うんだ?
実の親子じゃないのは、この治療が始まる前から知ってる事なのに。
紗織は下を向いたまま、顔を上げようとしなかった。
「紗織…どうしたんだよ」
紗織の肩に手をかけると、急にワーッと泣き出した。
「どうしたんだよ!?なぁ、紗織!」
紗織は両手で顔を覆い、首を振りながら泣いている。
「言ってくれよ…言わなきゃ分からないんだよ…?」
直次は諭すように優しく話しかけると、紗織はゆっくり両手を離した。
そして、何か怖いものでも見たような瞳で直次を見るなり、こう言った。
「先生…私…人を殺しました」
「え?何言って…」
「私…人を殺したの…あの男を…高谷を殺したのよッ!!」
今起きてる事が理解できなかった。
高谷を殺した?
紗織が?
違うだろ?
本当は高谷を殺したのは、別の誰かだよな?
直次は勝手に、そう思っていた。
小学生の子供に、人を殺せるわけがない。
そんなの有り得ない!
「ちょっと落ち着こうか…」
タバコをくわえ、火を点けようとするが、ライターを持つ直次の手が震えて、なかなか火が点かない。
何度もカチカチ音が鳴るだけだった。
「何で点かねぇんだよ!これだから安物ライターは…!」
イライラする気持ちを抑えながら立ち上がると、キッチンの戸棚から別のライターを取り出し、その場で火を点けた。
タバコの煙の奥には、涙を流す紗織が見える。
どう話を切り出せばいいんだ?
聞きたいことは山ほどあるのに、頭の中が混乱して、どう話せばいいのか分からない。
直次は、何とか時間をもたせたくて、フィルター近くまでタバコを吸うと、また紗織の隣に戻った。
かける言葉も見つからないままに…
この時間、紗織の隣で、一体何本のタバコを吸ったんだろう…
紗織の目も見ることが出来ないまま、まるでタバコに逃げてるようにも見える自分の情けない姿…
過去の記憶を取り戻す事なんて、自分は何人もの患者を診てきたし、記憶を取り戻して喜ぶ患者の家族たちも見てきたし、みんなに感謝されていた。
でも、今の自分はどうだろうか?
医者としての自分と、患者の父親としての自分。
医者の立場なら、患者の記憶を取り戻すための治療は、間違っていなかった。
じゃぁ…父親の立場なら…?
紗織にとって、忘れたままで良かった記憶が、自分のせいで思い出され、しかも、思い出す前よりずっと苦しみ悲しんでいる。
酷い父親としか見えない。
「先生…驚いたでしょ…?」
目を真っ赤にして、紗織は直次の方を見ながら口を開いた。
「紗織…」
それ以上は何も言えなかった。
「先生には全てを話さないとならないね」
紗織は涙を拭うと、ちょっと待っててと言って、キッチンに向かった。
「先生もコーヒー飲むでしょ?」
「ああ…」
落ち着きを取り戻そうとしてるのか、その姿がなんとも痛々しかった。
キッチンに立つ紗織は、直次の方を見ようとしない。
何度も溜息が聞こえる。
「紗織、言いたくないなら言わなくてもいいんだぞ」
でも返事は違っていた。
「何のために治療したのよ。結果をちゃんと報告する必要があるわ。そして、それは…父親代わりに、今まで育ててくれた先生に、全てを伝えなくちゃならない」
コーヒーを運びながら、紗織は真剣な眼差しで直次に言った。
そこまで覚悟してるのに、自分はオドオドしてしまって…
どこまでも情けない父親だ。
紗織は直次の隣に座ると、コーヒーを一口飲んだ。
「先生に話す前に、用意して欲しい物があるの」
「ん?何を?」
「アタシに関する事を書いた資料。それに写真。あとは先生の手帳」
直次は頷くと部屋に戻り、紙袋に詰め込んだ。
そして袋の中には、紗織から頼まれていない、テープレコーダーも。
紗織の言葉をメモしておきたいが、多分出来ないと思う。
いろんな感情が出てきて、手は止まったままになると思う。
紗織の目の前にレコーダーをセットすると、言えるものも言えなくなってしまう恐れもあるから、紗織に知られないように紙袋の中にセットしておくのだ。
「ちょっと待ってくれ」
直次は持ってきた紙袋をテーブルに置くと、紗織に向かって言った。
「何?」
「万一、ちゃんと思い出していないのに、この書類や写真を見て話を作ってしまうという可能性も無いわけではない。紗織を信用してるとか信用していないとかじゃないんだ。そこは分って欲しい」
「…わかったよ」
紗織は頷きながら答えた。
直次はコーヒーを飲み干すと、紙袋の中から手帳を取り出し、そしてレコーダーのスイッチを押した。
「紗織…言いたくない部分があったら、俺は無理には聞かない。紗織の話を俺は黙って聞くことにするよ。質問とかは、紗織が全部話し終えた時にするから。いいね?」
「はい…わかりました」
紗織は胸に手を当て、深い溜息を2回つくと
「じゃ…思い出した事を話します…」
そう言った。
「先生には…私の治療の中で、過去の記憶の話をしていると思うの。どうやって話したらいいのか…」
「そうか…それじゃ紗織が小学校に入る前後くらいから教えてもらおうか」
「はい、じゃあ…」
『私が高谷を殺した』
その衝撃的な言葉を放った紗織。
あんなに泣き崩れていたのに、今はきちんと話をしようとしている。
彼女の話すこと全てが驚きの連続だろう。
でも、彼女の話を遮る事無く、ちゃんと話を聞いておきたい…
「私には兄弟はいません。お父さんとお母さんと私の3人家族でした。
幼稚園の頃までは、みんなで旅行に行ったり、近くの公園に行ったり…すごく楽しかった。
でも、今まで家族で公園に行っていたのに、お母さんが一緒に来なくなりました。
そして公園には知らない女の人が…
確か『お姉さん』と紹介されたと思います。
お父さんとお姉さんは、仲良く笑いながら話をしていました。
私は、そのお父さんの様子を見ながら、ブランコに乗ったり、滑り台で遊んだりしていました。
そして帰るとき必ず「お母さんには内緒だぞ」と言っていました。
お母さんが一緒に公園に行く時には、そのお姉さんはいませんでした。
それが、お父さんの浮気だと知ったのは、私が小学校に入学した後、両親の離婚で知りました。
お父さんが何も言わないで出て行ってしまって…
お母さんが1人で部屋で泣いていて…
何日も、何ヶ月も、暗い時間でした」
「小学2年生くらいから、施設にいました。しずちゃん先生のいる施設です。
そこから学校に通っていました。
離婚して、お母さんも昼夜働いてたから、私を1人だけ家に残せないっていうのと、生活が大変だったから…
お母さんは1日おきに会いに来てくれました。
離れるのは寂しかったけど、私もガマンしました。
そのうち、会いに来てくれる日が少なくなってきて…
よく部屋で泣いていました…
なんかイヤな1年だった…
小学3年生になって、お母さんが施設に迎えに来てくれました。
一緒に暮らせるくらいになったよ、お母さんも早く紗織と毎日いられるように頑張ったよって言ってくれたのを覚えてます。
嬉しくて嬉しくて…
その時、お母さんの隣に、知らない男の人がいました。
一緒に家に帰ったけど、その男の人もいるままで、いつになったら帰るのかなーと思ってたけど、何日も家にいるので、私は本当にイヤでした。
お母さんは私の気持ちは判らなかったでしょうね…
ワガママを言ってる程度でしか考えていなかったと思います。
私は、その男と一緒に過ごすのがイヤで…
結局、施設に戻ることになりました。
小学3年生の終わり頃に、お母さんが施設に迎えに来ました。
あの知らない男は、いつの間にか新しいお父さんになっていました。
お父さんは欲しかったけど…私の欲しいお父さんは本当のお父さんで、新しいお父さんが欲しかったわけではないんです。
そんな大人の事情なんて関係ないんですよ。
私にとっては、お父さんお母さんの『古い・新しい』なんて無いんです。
本当の親だけでいいんです」
「新しい父も、早く私になついて欲しいのか、たくさん話しかけてきました。
学校であったことを聞きたがったり、何して遊ぶのが好きなの?とか。
あまり話したくなかったけど、そうすると、お母さんが悲しむ…
長話にならないよう手短に話をして、すぐに友達と遊びに行ってました。
小学4年生になると、父が家にいる時間が多くなりました。
お母さんに聞くと、父の仕事がなくなったと言っていました。
昼間働いているお母さんと、1日中家にいる父。
そのうち、父が私の部屋に頻繁に入るようになってきました。
カギを付ける事も出来ないし、なにより父が気味悪くて…
お母さんが仕事から帰ってくるまでの間、施設の手伝いをしに行くようになりました。
お母さんには、施設の手伝いがしたいから行ってる、そう理由を言って。
しずちゃん先生には、本当の事を話しました。
本当の父親でもないのに、私にとってはイヤな男が、自分の部屋に入ってくるのが苦痛だったんです。
しずちゃん先生は、私の気持ちを理解してくれました。
お母さんに施設の手伝いの話を言ってくれました。
学校が終わると、まっすぐ施設に行き、お母さんが帰ってくる時間を見計らって家に戻る、そんな毎日だったけど、あの男と2人きりになるくらいなら、こっちの方がずっとマシだと思ってました」
ちょうどその頃、紗織と出会っていたんだな…
元気な女の子だなぁと思っていたけど、まさか、そんな事があったとは…
直次は、その当時を思い出しながら聞いていた。