直次にとって、小谷の言動には不可解なものばかりだった。
「小谷さん」
直次は少し言葉を選びながら話し出した。
「今までの話を聞いて、僕だったら、そんな付き合ってるかどうか分からない相手に、お金を貸すなんてしませんね。ジュースやタバコ代くらいの金額じゃなかったでしょ?」
小谷は黙ったまま、また下を向いてしまった。
これじゃ話も進まないな...
もう少し気持ちが落ち着いた時じゃなきゃ、話せるものも話せないのかもしれない。
直次は手帳を閉じると、それとタバコを鞄に入れた。
「すみませんが、僕、今日はこれで帰ります。この箱の中の物、お借りしていいですか?」
小谷は小さく頷いた。
玄関を出ようとした時、
「わざわざ来ていただいたのに、答えられなくて...」
涙声の小谷が、頭を下げながら弱々しく言った。
「まぁ...えっと...またお会いして話を聞かせていただきます。では...」
直次は軽く会釈して、小谷の家を後にした。
話のつじつまが合わないというか、どうもしっくりこない。
本当の部分を知られたくないのか?
だから小谷は何度も『知らないままがいい』みたいな事を言っていたのか?
自分の気持ちは変わらない。
真実が何であろうと、それを受け止める覚悟は出来ている。
紗織の父親は自分なのだから。
「ただいま」直次の声に
「お帰りなさい」と、リビングから声が聞こえた。
元気よく紗織が玄関に出てくる。
「お勤めお疲れ様でした」
ニコッと笑う紗織に、さっきまで小谷の家で起きたイラつきが吹っ飛ぶようだった。
「待たせてゴメンな。用意するから、もう少し待ってくれ」
直次は急いで階段を駆け登った。
鞄から携帯電話とタバコを取り、ポケットに財布を入れて、部屋を飛び出した。
途中、階段を踏み外しそうになりながら、紗織の待つ玄関に向かった。
「そんなに慌てなくても...」
紗織がクックッと笑いながら言った。
「階段から転げ落ちなくて良かった」
直次も笑いながら言った。
自宅から歩いて行ける距離に居酒屋がある。
そこは良く行く馴染みの店だ。
「いらっしゃい!直さん!」
店主は直次を『先生』ではなく『直さん』と呼ぶ。
昔からの付き合いがあるから、この呼ばれ方が心地いい。
「どーも、イッチャン」
直次は店主を『イッチャン』と呼ぶ。
名前の伊勢さんから、イッチャンと呼ぶようになった。
店内にはカウンターに6席、小上がりがあって、小さめのテーブルが3つ。
壁にはホワイトボードに【本日のオススメ】として、メニューが書いてある。
直次と紗織は、一番奥のカウンター席に並んで座った。
次々と注文し、目の前に沢山の料理が並んでいく。
「なぁ紗織、もう少しペース落とさないか?」
「これくらい、オジサンならすぐに食べちゃうでしょ?」
ジョッキのビールが空になるペースも、いつもより早すぎる。
「紗織、大丈夫か?いつもと全然違うぞ?そんな飲み方したら具合悪くするぞ」
「大丈夫だって!」
ヤケになってるように見えて、直次は心配になった。
「どうしたんだ?何かあったのか?」
「別に何もないよ...」
笑いながら言う紗織だけど、そのセリフの裏があるような気がしていた。
「何か思う事とか悩みあるなら言ってくれよな」
直次はジョッキに残ったビールを一気に飲み干した。
楽しい食事になるかと思っていたけど、紗織の、いつもと違う様子に、直次も言葉がでなかった。
店には笑い声がたくさん聞こえるのに、二人にはそれがなかった。
もう、この空気に耐えられない。
「紗織、出ようか」
直次が席を立つと、紗織も黙って立ち上がった。
自宅までの距離を、何の会話もなく並んで歩く。
こんなに沈んだ顔をした紗織を見るのは、久しぶりだった。
もうすぐ家に着くという時、紗織が口を開いた。
「何か私のこと、わかった...?」
自宅に着くと、紗織はそのまま階段を上って部屋に入っていった。
直次は一人、リビングのソファーに座り、タバコを取り出した。
【何か私のこと、わかった?】
今日、小谷に会うとは話していない。
それなのに、なぜ?
タバコから立ち上る煙を見つめながら考えていた。
冷蔵庫から缶ビールを出し、またソファーに座ると、紗織が部屋から戻ってきた。
「紗織」
直次が話しかけても返事がない。
「何か、怒ってるのか?」
「...別に...」
紗織も冷蔵庫から缶ビールを出すと、その場で飲み出した。
明らかに変だ。
自分がいない間に、何かあったんだ。
こうなったら、紗織から言い出すまで、こっちから話しかけない方がいいな...
直次はテレビをみながら、チラチラ紗織を見ていた。
大好きなお笑い番組も、今の直次は笑えなかった。
タバコを吸い終わっても、またすぐに火を点ける。
重苦しい空気の中、気が付くと灰皿には、吸殻が山のようになっていた。
「もうタバコ無くなったのか」
小さく呟いた後、部屋に取りに行こうと立ち上がった。
「あのさ...私の過去...わかった...?」
直次の視線に合わせないまま、紗織がきいた。
「まだ、分からないままだ」
そう言うと、直次はリビングを出た。
そして、紗織の声が聞こえる。
「ふーん...そうなんだ...先生」
何か違和感を感じながら、直次は階段を上り、部屋に入った。
どうして紗織は不機嫌なんだろう?
机の引き出しから、新しいタバコを一箱取って考えてみた。
今日は居酒屋に行く事の他に、何か約束事があっただろうか?
誕生日でもないし、お祝い事でもないし...
さっぱり思い出せないまま、直次がリビングに戻ると、今度は紗織がリビングを出た。
俺、何か悪いことしたかな?怒らせるような事したかな?
直次は頭の中をフル回転させていた。
冷蔵庫から缶チューハイを出してソファーに座ると、あんなに吸い殻いっぱいの灰皿から、新しい灰皿に変わっていた。
しかも、さっきのより2回りも小さいサイズの灰皿。
あ、もしかして、タバコ吸いすぎで怒ってる?
そうか、そうか!!部屋が煙たいって、よく注意されてたから、ソレで不機嫌なのか!
タイミングよく紗織が現れたので、直次は
「紗織、ごめんな」
と言いながら頭を下げた。
「え?何のこと?何で謝ってるの?」
紗織は不思議そうに直次を見ていた。
「タバコの吸いすぎで怒ってるんじゃないのか?」
すると、はぁーっと溜め息をついた紗織が言った。
「これ...今日クリーニングに出した服の中に入ってた」
そう言って直次の前に差し出した。
それは小谷から借りた、あの写真だった。
紗織から手渡された写真の裏には何も書いていなかったか、そこに写る男女は紗織の関係者だ。
これを見せるのは、もう少し情報をまとめてからにするつもりだったのに、自分のだらしなさのせいで、こんな形で紗織の目に晒してしまったのだ。
「あの...」
紗織に話し掛けようとするが、次の言葉が見つからない。
「あ、ごめんなさい...アタシもう寝るね」
チラッと直次を見た後、リビングを出た。
紗織が涙ぐんでいるように見えたので、直次は追い掛けるように名前を呼ぶと、今度は直次の方を振り返らず
「おやすみなさい...先生」
と言った。
階段をかけのぼる音と、紗織の言葉が、直次の頭の中に響いている。
何か聞き間違ったのか?
そう...違和感は紗織の最後のセリフだった。
『先生』だって...?
今までは『オジサン』だったのに、どうして急に『先生』なんて言うんだ?!
『先生』と言っていたのは、まだ紗織が入院する前...
直次は、ハッとした。
もしかして...もしかして...ッ!!
直次は紗織の部屋の前にいた。
何て声をかけたらいいのか、思い付かないまま
「紗織」
と、ドアをノックしながら、名前を呼んだ。
部屋の中の紗織から返事はない。
もう一度ノックをするが、やはり返事はない。
返事どころか、物音一つしなかった。
本当は紗織に聞きたかった。
『少しでも過去の事を思い出したのか?』と。
でも、ここで強引に部屋に入ったら、紗織に嫌われる。
それだけでない。
もう二度と、過去を取り戻す治療が出来なくなってしまう...
直次は諦めて、自分の部屋に戻った。
椅子に座り、深い溜め息をついた。
どうして写真を鞄にしまわなかったんだろう。
紗織に見られてしまった後悔ばかりが、直次を襲った。
ハッキリはしないが...
紗織は多分、何かを思い出したはずだ。
どうやって、どのタイミングで聞き出そうか...
タバコを咥え火を点けた。
フーッと吐き出した煙は、まっすぐ延びると、その先で海の波のように漂っている。
『ホントに...俺は何やってんだよ!!』
自分自身に、かなりイライラしていた。
せっかく掴んだと思った糸が、手元からスルッと抜けていく。
そんな感覚だった。
今は写真も手帳も見たくない。
鞄の奥に、見つかった写真を押し込むと、ベッドに倒れこんだ。
なかなかイラつきが治まらない。
タバコを何本も吸っても、ベッドに潜り込んでも、直次の自分に対する怒りは治まらない。
直次は静かに部屋を出てリビングに入った。
カーテンを開けて外を見ると、三日月よりも細くなった月が見える。
窓を開け、ウッドデッキに出ると、そこにある椅子に腰掛けた。
何も考えたくない...正直な気持ちだった。
あまり届かない月明かりと、時々吹く風に揺れて聞こえる草木の音。
自然に慰めて欲しい訳ではないが、自分をポンと置かせてもらいたい、そんな気分だった。
タバコに火を点け、煙をゆっくり吸い込み、ゆっくり吐き出す。
煙を見つめ、赤く光るタバコの先を見つめ、ただボーッとするだけ。
イライラした部分が、だんだん薄れていくような感じがした。
カラカラ...
窓が開く音がして見てみると、紗織が立っていた。
「ちょっと、いいかな?...先生」
直次はリビングに戻り、ソファーに腰掛けた。
「どうした?紗織」
どうしたも、こうしたもない。
言いたい事は、何となく分かっている。
「先生。私...思い出したわ」
「何を思い出したんだ?」
「私の過去を。全てではないけど...」
「そうか...」
その次の言葉が出てこなかった。
いや、言ってはいけない言葉だと思っているから、敢えて言わないだけだが。
「もう、2時近くなのね...」
紗織は、時計を見ながら呟いた。
「先生、今から出来る?」
「ん?何がだ?」
「記憶の治療」
まさか、紗織の方から言われるとは思わなかった。
「今から?こんな時間からか?」
直次の言葉に、紗織はコクンと頷いた。
「今、わかってる記憶が明日になったら消えるとは思ってないよ。でも、治療に対する決心は、確実に鈍ると思う。無謀かもしれないけど、覚悟が出来てる今しか、タイミングが無いかもしれない」
真剣に直次の目を見て話す紗織。
それは、強い意思の表れだ。
「でもな、紗織。思い出したくない過去を、知ることにもなるんだぞ」
そう言うと、紗織は、フフッと笑って言った。
「今更なに言ってるの? “ 思い出さないままでいい ” そう言ったのに、治療をすすめたのは先生じゃない」