この重い空気を、テレビの音が何とかしてくれると期待したけど、ますます重くなってるような気がした。

お風呂でも何でも、適当な事を言って部屋から出たらいいのに、それをすると新聞の下にある手紙が気になる。

手紙だけ抜き取ったとしても、それを読んだであろう紗織の様子も気になる。


“手紙、読んだのか?”


そう聞いてしまえば簡単なのに…


「はぁ…」

直次は、今度は大きな溜め息をついた。

「オジサン、どうしちゃったの?ずっと溜め息ばかりじゃん。何か悩み事?」

紗織に聞かれ、答えに困った。

「何でもないんだ」

苦笑いして言うしか出来なかった。

「あのさぁ…」

紗織はココアが入ったカップをテーブルに置いて、真剣な眼差しで直次に言った。

「オジサンは何かあると顔に出るのよ。仕事なのか、それ以外かは分からないけど、悩んでたりすると溜め息も増えてくるのよ。アタシに話せる事なのか分からないけど、話せるなら話してよ…」

どうしたらいいのか...

ここまで言われてるのに、それでも黙ったままでいいのか、直次は悩んだ。

「オジサン、アタシに気遣いすぎてる。知らないとでも思ったの?隠した事も分かってるんだよ」

紗織はそう言うと、新聞の下の封筒を取り出した。




「はい...」

封の開いた手紙を、直次の前に差し出した。

「宛名はアタシの名前も書いてたから、オジサンより先に読ませてもらったよ」

「ああ...」


テーブルの上の完全に温くなった缶ビールを、紗織がキッチンまで持っていった。

「オジサン、次は何飲むの?」

「んー酒はもういいかな...コーヒーもらおうかな」

「わかった、でもインスタントでいい?」

「うん」

紗織は直次のマグカップを出し、ササッとコーヒーを淹れ、直次に手渡した。





また静かで重い時間が流れた。

手紙も読んでしまった以上、知らないフリする事も逃げる事も出来ない。

どうしたらいいのか…

直次はコーヒーを飲みながら、頭に入らないテレビ見つめていた。


「オジサン…」

重い空気を紗織の涙声が更に重くした。

「アタシは…誰なの?」

囁くような声で、直次に聞いた。


疑いの目で、大粒の涙を流しながら、真っ直ぐ直次を見ていた。














「紗織…」

直次は、それ以上言葉が見つからなかった。

「オジサン…」

紗織は直次の向かい側のソファーに座って言った。

「オジサン、アタシは自分の過去なんて、知らなくてもいいと思ってた。今こうして、オジサンと生活していけるなら、記憶を戻す治療なんて必要ないって…ただ、オジサンも分からないアタシの過去を、知らない誰かが知っている…それが怖いの!」

真っ直ぐ顔を上げ、時々唇を噛みながら話す紗織を見て、胸が苦しくなった。

「紗織」

直次は紗織の隣に座り、抱きしめながら言った。

「大丈夫だ!少しずつ紗織の過去を辿ればいいんだ。あんな手紙、気にすることはない!俺と一緒に紗織の記憶のパーツを探していこう。大きなパズルを完成させよう。俺は紗織の父親だからな!」





どれくらい紗織を抱きしめていただろう…

紗織は直次の腕の中で、いつの間にか眠っていた。

ソファーに寝かせ、タオルケットをかけた。

タバコに火を点け、深く煙を吸い込み、ゆっくりと溜め息のように吐き出し、あの手紙をもう一度読んだ。


【紗織の過去を知っている】


一体誰が…?
読む度に腹が立つ。


【紗織の過去を知っている】


たったこの一行で、紗織の心を乱したのだから。


『誰なんだ!!』

吸っていたタバコを乱暴に消した。
直次は心底込み上げる怒りで震えていた。
無表情の手紙を握りつぶしながら誓った。



『紗織は絶対に守ってみせる!!』
















次の日から紗織の記憶を戻す治療を始めることにした。
場所は病院ではなく、自宅の直次の部屋で。
とにかく、リラックスしてもらう為だ。

「オジサン、何時からやるの?」

鳥の唐揚げを作りながら、紗織が聞いた。

「んー、晩ご飯食べて風呂入ってからにしよう」

直次は新聞を読みながら答えた。

紗織の様子は普段とあまり変わらないように見えた。

いつも会話をしながら食事をする。
紗織の楽しい話が、直次は大好きだった。

「なぁに?ジーッと見て…」

紗織が箸を止めた。

「いや、美味しそうに食べるなーと思って」

直次がフッと笑う。

「そぉ?ご飯は美味しく、楽しく食べなきゃねー!」

最後の一口をパクッと食べると

「ごひふぉーはま」

と両手を合わせて言った。


時計は21時を少し廻っていた。

直次が3本目のタバコを吸い終えると同時に、扉をノックする音が聞こえた。

「オジサンお待たせ」

髪を1本に束ねた紗織が、直次の部屋に入ってきた。

「オジサン、何か用意する物とかある?」

「ん?別に無いよ」

「じゃ、お茶淹れてこようか?」

「大丈夫だよ。お前緊張してるんだろ?」

笑いながら紗織を椅子に座らせた。

「だって…」

「まぁ始めての事だから当然といえば当然なんだけど。何も考えないで、ただ座っていればいいんだよ」

紗織の頭をポンポンと叩いて言った。


「じゃ…この音を聴いてて…」

照明を落とし、静かな波の音のCDをかけた。


紗織の、つい最近の記憶はある。
中学時代の記憶も、しっかりある。

今から約6年前、直次と生活を始めてからの記憶だ。
仲良かった友達、当時の制服のデザイン…
そのあたりは何も問題は無かったように見えた。

目を閉じて、椅子の背もたれに体を預けて座る紗織の姿を見ると、過去の記憶を失くした人には全く見えない。

ごく普通の、どこにでもいそうな、普通の女の子だ。
 
【紗織の過去を知っている】

あの手紙を思い出した。
この子の過去に、何があったのだろう…


時計を少しずつ左回りに戻していく。
紗織の表情を確かめながら、ゆっくりと優しく戻していく。


ここから慎重にいかなきゃならない。

直次は自分に言い聞かせながら、紗織に言葉をかけた。


「紗織、今何が見える?」

「…」

「今、お前は中学校に入学した頃だ。周りに何が見える?」

紗織の表情が曇った。

「何か見えるか?」

「…何も無い…知らない人ばかり」

「他に何か見えるか?」

「...特に何も...」

入学した時は楽しみよりも緊張の方が大きかっただろう。
"何もない"は、ある意味で合ってるのかもしれない。

「じゃ、もう少し戻ってみよう。今は小学校6年生だ」

紗織の表情が更に曇った。

「どうした?この時期は嫌な時期なのか?」

「...話したくない...」

それきり、紗織は一言も話そうとはしなかった。

「そうか。わかった。今日はこれくらいにしておこう。波の音が聞こえなくなったら、目が覚めるよ」

直次はそう言った後、CDを止めた。





ゆっくり紗織の目蓋が開いた。
それを確認してから、落としていた照明を少し戻す。

「どうだ?大丈夫か?」

直次は自分の椅子に座って聞いた。

「大丈夫だけど…なんだか…」

ボーっとしたまま紗織が答えた。

「何だか?」

「不思議…」

「そうだろうな…始めての人は、みんな似たような事を言ってるよ」

「…そう…なんだ…」

直次はタバコに火を点け、深く煙を吸い込んだ。

「気分はどうだ?」

「んー良く分かんない…」

紗織は前髪を触りながら呟いた。

「部屋に戻るか?」

「…うん…すごく疲れた…かもしれない…」

椅子から立ち上がる紗織を支えながら部屋を出た。

ベッドに座らせると、そのままバタッと横に倒れた。

「おい…ッ」

「オジサン、おやすみ…」

そう言うと、あっという間に紗織は、寝息をたて眠ってしまった。

布団をかけて、静かに部屋を出た。

『ちょっと飲もうかな』

直次はビールを取りに行くため階段を下りた。







冷蔵庫からビールを2本取り出し、部屋に戻った。

椅子に座りプルトップを開けると、半分くらいまで一気に飲んだ。

キンキンに冷えたビールが、喉の奥まで流れていく。

胃がキュッとなる感じが、直次は好きだ。

「クーッ!」

思わず声が出る。
 
それからタバコに火を点けた。

アルコールを飲むと必ずタバコを吸いたくなるのだ。

ジジジッと灰に変わる音と、赤く光る炎を見ながら、ゆっくり煙を吐き出す。

この、ゆったりした時間が、今の直次には必要だった。


始めての治療だから、紗織もかなり疲れただろう。

潜在意識の中から、過去の記憶の糸を探し出すんだから。

ただ、今回で分かった事は、どうやら小学校時代に何かあったようだ。

「話したくない」と言っていた紗織。

どうして話したくないのか?
原因は何か?

早く理由を突き止めたいが、急げば悪い方向に行きそうな気がする。


直次はパソコンに向かった。

紗織の表情、話し方、治療前後の様子などを細かく入力し保存した。


気がつけば、灰皿にはたくさんのタバコの吸い殻があり、テーブルには飲み残しのビールがあった。

「2本なんて持って来なきゃ良かったな」

直次は灰皿と缶ビールを持って、1階に下りた。


紗織の過去を見つける治療は様子を見ながらやってるが、なかなか進まない。

相変わらず、小学校時代の話をするのを嫌がっている。

突き進んでいきたいけど、ゆっくりやるしかない。

毎回、小学校時代で止まる。

1年ごと時間を巻き戻していくのがベストだけど、このままだと、いつになったら紗織自身から口を開いてくれるのか…



治療を初めてから10日が過ぎたある日、直次は紗織と水族館に出かけていた。

「オジサン水族館が好きなの?」

「好きというか、優雅に泳ぐ魚達を見ると癒されるというか…」

紗織がプーッと吹き出し、大笑いした。

「そこまで笑うこと無いだろ…」

「ゴメン!でもオジサンから水族館は想像出来なくて…」


週末ということもあって、家族連れが多い。

それだけでなく、この水族館で生まれたアザラシのお披露目もあるから、余計に人が多い。

直次は、お気に入りの水槽の前に立っていた。

ここの水族館の一番大きな水槽の中で、いろんな魚達がフワッと飛ぶように泳いでいる姿を、直次は吸い込まれそうな錯覚を覚えながら見上げていた。

「オジサン」

「ん?どうした?」

「なんだか、マッタリしてるなーって」

「魚が?」

「いや、オジサンが」

「俺が?」

「うん。一通り見た後、またここで止まってる。岩場に付いてるフジツボみたいに」

そう言いながら、紗織はクックッと笑った。

「フジツボかよ」

直次も苦笑いした。


















「ねぇ、オジサン…」

駐車場まで歩いていると、急に紗織が声をかけた。

直次はポケットから取り出したタバコをくわえて、これから火を点けようとする所だった。

「どうした?」

ライターの火が消えないように、風を気にしながらタバコを近付ける。

「オジサン、歩きタバコは格好悪いから止めて!」

ムッとしながら紗織は言った。

「いいじゃねぇか…もう車は目の前なんだし」

火が点いたタバコの煙を、深く吸い込んだ。

助手席のドアを開け、ちょっと膨れた顔をして乗り込む。

直次は紗織の表情を見て、フフッと笑いながら煙を吐き出し、

「そう怒るなって」

と声をかけた。

「オジサン医者なんだから…」

ウワッ!
紗織の“お小言”が始まったぞ…

『タバコくらい、ゆっくり吸わせてくれよ…』

心の中で、そう言いながら
うんうんと、紗織の話に黙って頷いていた。