紗織の中では、過去の記憶が“無くて普通”になってるかもしれないが、でもそれは“普通”じゃない。

特に、自分の親の事すら分からないのは、とても寂しく悲しい事だ。

もっと早くに、過去の記憶を取り戻す治療をするはずだったが、紗織の思春期と時期がぶつかる為、高校を卒業するまで待っていたのだ。


「オジサン…すぐ返事しなきゃダメ?」

「すぐじゃなくて構わないよ。沙織のタイミングでいいから」

「そう…わかった。じゃオジサン、アタシお風呂入ってくる」

「ん?ああ…」

紗織はテレビのリモコンを直次の側に置くと、サッとリビングから出ていった。


『紗織に話して良かったんだろうか?
まだ早かっただろうか?』

そう思いながらタバコに火を点けた。

医師として、父親として、彼女の幸せを願うため、当然の事を言ったまでだ。

けど“本物の父親”は、そうしただろうか?

直次は深い溜め息をついた。

「オジサン、次いいよ」

お風呂からあがった紗織が、頭にタオルを巻いてリビングに戻ってきた。

「ん?ああ…」

直次はタバコの火を消した。

「オジサン、タバコ吸いすぎじゃない?医者なんだからタバコ止めなきゃ」

テーブルの上にある灰皿の中の吸い殻を見て、紗織は少し困った顔をして言った。

「まあな、本当はそうだけど…今は止める気ない」

「オジサンの体だから…でもオジサンがいなくなったら、アタシは困るし絶対イヤだからね」

「ん…ありがとう。じゃ風呂入るかな」

「いってらっしゃーい」

紗織は冷蔵庫からコーラを出し、ゴクゴクッと美味しそうに飲んだ。

熱めのお湯に体を預けた。
ザバーッと勢いよく、浴槽からお湯が流れていく。

『紗織は本当に、過去の記憶を思い出さなくてもいいと、思ってるんだろうか?』

湯気で一杯の浴室の天井を見上げながら、直次は溜め息をついた。

「あ~何だか溜め息ばかりだな…俺…」

小さな独り言を言いながら、浴槽を出た。


お風呂から上がりリビングに入ると、紗織はいなかった。

どうやら自分の部屋に戻ったらしい。

冷蔵庫からビールを取り出し、その場でゴクゴクッと飲んだ。

「さて…どうしようか」

紗織を、どう説得したらいいか…

あれこれ考えたけど、あくまでも直次の、医者としての思いであって、紗織自身の思いを無視した形になる。

長い間、紗織の記憶が無かったのに、急に全てを呼び起こさせるのは…

冷蔵庫から缶チューハイを1本取り出し、直次の部屋に向かった。

紗織の部屋は、直次の部屋の向かい側にある。

「紗織」

ドアをノックして声をかけた。

「なに~?」

部屋の中から紗織が返事をする。

「いや…何でもない…」

次の言葉が思いつかなかった。

部屋のドアが開くと紗織が

「どうしたの?オジサン」

と、顔を出した。

「いや、リビングにいなかったし、俺ももう少し仕事するからさ」

その場で思い付いた、適当な言い訳を言った。

「そうなんだ。仕事まだあるのにチューハイ飲むの?飲み過ぎたら仕事にならないわよ?」

クスクスッと笑いながら紗織は言った。

「ああ、気を付けるよ」

直次も笑いながら答えた。

部屋に入り、またパソコンの電源を入れる。

タバコに火を点けると、直次はまた考え込んだ。

『急がなくていいよ』

そう言ったのに、早く治療を始めないとと思ってしまう。

「俺は父親としては失格だな…」

紗織は戸惑っていた。

オジサンと暮らしてから、今まで一度も"記憶を戻す治療"の事について話が無かったのに、急に言われたからだ。

『別に…このままでもいいのに…』

ベッドに倒れ込み、天井を見上げた。

過去の記憶が無いことで、苦労した事は無かったし、辛いと思った事も無かった。
記憶よりも、オジサンから沢山の愛情をもらっていたから、それだけで良かった。

今度は自分が、オジサンに恩返しをする番だと思っていた所に、この治療の話をされたのだ。

『オジサンは、アタシと一緒にいることが、イヤになったのかな…?』

ネガティブな考えばかりしか出てこない。

オジサンの真意を聞きたかった。
記憶を戻して、どうするの?
アタシは、このままでいいのよ?
何の目的で、治療したいと思ったの?

今すぐ聞きたかったけど『まだ仕事がある』って言ってたから、聞く事も出来ない。

不安で胸が押しつぶされそうな、そんな気持ちになった。

「落ち着かない…」

紗織は部屋を出た。

向かい側の直次の部屋からは、カタカタとパソコンのキーボードを押す音が聞こえる。

『忙しそう…』

静かに階段を下りてキッチンに入った。

ココアを淹れソファーに座り、それを一口飲む。

「はぁ…あったかい…」

ホットココアは好きな飲み物。

お酒が飲めない紗織にとって、気分を落ち着かせるアイテムの一つだった。
紗織は、しばらく考えていた。

オジサンは、いつだって紗織の事を優先的に考えてくれた。
記憶の事だって、もっと前から治療も出来たはず。
それでも、その時にやらなかったのは、オジサンの考えがあったからに違いない。

ココアを飲み干し、また部屋に戻る。

『どうしよう…』

直次の部屋からは、まだ物音が聞こえる。

ドアをノックしようと、部屋の前まで行くけど、その先が出来ない。

やっぱり止めよう…
今日はもう遅いし…

自分の部屋に入って、アロマキャンドルに火をつけた。

本当は聞いてみたかった。
治療を始める事の意味を。

記憶が戻ったら、サヨナラしなきゃならないのかを。

「オジサンと離れたくないよ…」

お気に入りのクマの縫いぐるみを抱きしめながら呟いた。

誰が母親でも、誰が父親でも構わない。

でも、オジサンと別れるのはイヤだ。

紗織は、すすり泣いた。
「何時だ?」

背伸びをしながら直次は時計を見た。

もう2時を過ぎていた。

いつもの事だけど、もっと早くに寝なくちゃな…

パソコンの電源を落とし、しばらく目を閉じ目頭を押さえていた。

『仕事もメドがついたし、寝る前のビールでも飲もうか…』

部屋を出ると、そのままキッチンに向かい、冷蔵庫の中からビールを取り出した。

「ん?」

テーブルの上に、紗織のマグカップがあった。

「起きてたのか?」

シンクにマグカップを戻そうと、それを触ると、まだ温かかった。

ビールを一旦冷蔵庫に戻し、紗織の部屋に向かった。

「紗織?起きてるのか?」

ドア越しに声をかけてみるが、紗織の反応はない。

「紗織…寝たのか?」

今度はドアをノックしながら声をかけた。

「なに?まだ起きてたよ」

ドアを開けないまま、部屋の中から紗織が返事をした。

「寝ないのか?もう遅いぞ」

「これから寝るところだよ」

「そうか、俺も寝るからな…おやすみ紗織」

「おやすみ…オジサン」

直次は少し紗織の事が気になったが、高校卒業した女の子が夜更かしする事は珍しい話じゃない。

部屋に戻り、ベッドに入った。

「あ!ビール!」

また部屋を出てビールを飲みにキッチンに行った。

冷蔵庫から、さっきのビールを取り出し、ゴクゴクッと飲んでいると
足音が聞こえた。

「オジサン…」

紗織だった。



思い詰めたような顔をして、キッチンの入り口側に立っていた。

「どうした?」

直次は紗織をチラッと見て、ソファーに座った。

紗織は何も言わないまま、直次に近付いてきた。

「どうしたんだ?何か言いたい事あるのか?」

ビールをテーブルに置いて聞いた。

「オジサン…」

直次の隣に座った紗織が、小声で言った。

「どうして記憶の治療をするの!?」

「言っただろ、記憶が無い状態は普通じゃないんだって」

「本当に、それだけなの?」

目に涙を浮かばせて聞いてくる紗織を見て、直次は驚いた。
 
「どうしたんだよ、そんな心配する事じゃないだろ?」

紗織の頭をポンポンっと叩いて、テーブルに置いたビールを取り、一口、二口飲んだ。

「オジサンは、アタシの事キライ?」

「え?」

「追い出したくて治療を始めるの?!」

「何でだよ…何でそう考えるんだ?」

「だって…記憶が戻ったら、オジサンと離れなくちゃならないんでしょ?」

紗織は下を向いて、とうとう泣き出してしまった。

「記憶が戻ったから紗織を追い出すなんて、絶対にしないよ。紗織が自分から離れていくのなら別だけど…俺は紗織の父親なんだからさ」

「オジサン!」

紗織が直次に抱きついて言った。

「お願いだから…記憶が戻ってもアタシをここに置いて!」

何でそんなに心配するのか、そんなに記憶を戻す事が怖い事なのか分からなかった。

記憶がないまま、自分の生い立ちも分からないまま生きていく方が、どんなに寂しい事だろうと思って治療を勧めたのに、こんなに恐怖心を抱くものかと思った。

患者の思いは患者しか分からない。

紗織の気持ちは、紗織しか分からない。

直次の思いも、直次しか分からない。

それでも分かってもらう為に、何度も話し合わなければならないのだ。


号泣する紗織を、優しく抱きしめた。

「心配する事ない。紗織が自分から治療すると言うまで、オジサンは待つから。嫌がってるのに無理矢理する事もないから」

直次は、しばらく紗織が落ち着くまで、頭を撫でていた。

それはまるで、泣きじゃくる小さい子供をなだめるために、親がしてあげるようだった。


呼吸の乱れが治まった頃

「オジサン…あの話しは…もう少し待ってね…」

「大丈夫だ。紗織が良くなったら、治療を始めよう」

うんと頷いて、それぞれ自分の部屋に戻った。


直次は眠れなかった。

今までの患者には、必ず誰か身内の人がいたから、治療を拒まれるなんてなかった。

紗織が、あんなにイヤがる理由が、まさか

『離される』

と思っていたなんて…


そっと部屋を出て、リビングに行った。

何本もビールを飲んだけど酔えない。

こんなに夜が、重く長く感じる日は、なかった。



紗織が治療を拒んでから今日で3週間になった。

あれから直次も、紗織の記憶の事について、全く話さなかった。

お互い、何もなかったように過ごしていた。

ある日、直次の職場の病院に、珍しい人が来てくれた。

施設の小谷先生だった。

少し仕事が残っていたので、一階のラウンジで待っててもらい、15分くらい後に直次が会いに行った。

「お待たせして申し訳ありません」

「いえ、私も突然だったので…お忙しいのにすみません」

夕方の病院は、外来診察が終わっていても、人が多い。

「佐々木先生、少し外出できますか?」

「じゃ、食事でもどうですか?って…私がお腹空いてるだけなんですが…」

直次は照れながら話した。

「これから昼食なんですか?」

「いつもは、もう少し早いんですが…」

病院近くの喫茶店で直次はエビピラフを頼み、小谷先生はコーヒーを注文した。

「今日は、どういった用件で病院へ?」

直次は早食いだ。
お腹が空いてるのもあって、注文したエビピラフを10分で平らげてしまった。

「佐々木先生、大丈夫ですか?そんなに急いで食べると、体悪くしますよ?」

小谷先生が言った後「あッ」と片手で口元を塞いだ。

「医者の不養生です」

直次が笑いながらコーヒーを飲んだ。

「小谷先生、お元気そうで何よりです」

「あ…私、あの施設を退職したんです。年も年でしたし、いろんな事がありすぎました」

いろんな事…それは紗織の事が大きく占めてるのかもしれない。

「あの…紗織ちゃんは元気ですか?」

最後の一口のコーヒーを飲みきってから、直次に聞いてきた。

「ええ、とても」

コーヒーのおかわりを二人分注文して言った。