抱きしめることも、涙を拭うことも……。
栗原先輩のために泣くのだとしたら、俺はきっと何も出来ないと思った。
それが麻緋の望みでもあるような気がしたから。
だけど、麻緋は、ニッコリと穏やかに笑って、「その人すごいんだね」といった。
「……お前のほうがすごいよ」
その呟きを麻緋は聞こえたのかどうか……。
とにかく、麻緋は、また自分の部屋に入り、ピアノの曲を流した。
いつもと違い、大音量で流れる音と、いつもよりも大きな声で歌う麻緋の声。
ゾクッと背筋が伸びた。
鳥肌が全身にたつ。
涙を堪えるような声を全力で吐き出す。
声が大きいから歌詞までしっかり聞こえた。
その歌詞の中に“大好き”“愛しい”“いつも傍にいてほしい”という単語がはっきりと聴き取れた。
「……あいつに向けて歌うなよ」
その告白のような曲はきっと、今は海を越えたあの人を思って考えた麻緋の歌詞。
ずっと聴きたかった歌だけど、きつい。
八重歯の似合うあの人に、この曲が届きませんように。
俺は心の中でそんなバカなことを考えながら、頬を伝う涙を拭った。