川原さんの後ろ姿を見送ってから、私は息をつくことも出来ないまま、また体操座りの膝に顔を埋め、足首から先だけをじたばたさせます。

本当は、きゃーって叫びながら、もっと手足をばたばたさせ、体を揺すりたい気分でした。

飛び上がっても良いくらいです。

唇にはまだあの人の感触が残っています。

大きく空気を吸い込むことが出来ず、目を閉じて唇を少し開くと、もう一度あの唇が降りて来そうな気がします。

夢うつつとはこんなことをいうのだと思います。

あの人はたった一夜で、夏の景色、私の目に見えるものすべての色を変えてしまう程の威力を発揮したのです。


しかしお風呂を済ませると、母が来ていたので一気に現実へと引き戻されてしまいました。

「お客様?」
お台所でお茶を淹れながら、私は母に簡単ないきさつを説明しました。

説明していると、さっきまでの出来事が、本当にあったことではない気がしてきます。

それでも、琺瑯のシンクに置かれた黄色い花は、オレンジ色の灯りのせいで、外にいる時よりもその色を濃くしていて、はっきりとあの人の存在を思い起こさせるのでした。

母はその花を見ながらお茶を啜ります。
「河童沼にも行ったの?」
「ああ、うん、行った。お母さん、あの人、河童かもしれない」
「河童?」

母は笑うと、もう寝なさい、と言って、私は首をすくめながら、この人はいつから夢を見なくなったのだろうと思いながら、二階の自分の寝室へ引き上げました。