ペンダントになったそれを、彼の黒い瞳が興味深そうに見ていた。
そういえば、説明するのをすっかり忘れていた。
「これね、広司さん……ええと、幼なじみのお兄ちゃん……が、失くさないようにってペンダントにしてくれたの、でも取り外しできるんだよ、見てて」
「いい」
ふい、と、まっすぐな目がわたしから外れていく。
「もういらん、それ、陸にやる」
そうだ、こんな勝手なことを、して。
傷はつけなかったとしても。
取り外しが、できるのだとしても。
わたしは間違いなく、瑞紀の大切なものに、いらない手を施してしまった。
なにか大切な思い出があるのかもしれないのに。
勝手にペンダントにしてずっと身に着けていた、なんて、嫌がられる、気持ち悪がられるに決まっているのに。
「あ……の、」
「もう、陸のもんや」
「え……?」
「そんだけ似合っとったら、陸のもんや」
だからやる、と。
外れていた視線がこっちに戻ってきて、少しだけ照れくさそうに、くしゃっと笑った。
「クリスマスプレゼントな」
彼の肩のむこうに雪が舞っている。
ああそうか、もうクリスマスか、瑞紀に会えることが楽しみで、そんなイベントはすっかり頭から抜けきっていた。
こんなに素敵なクリスマスプレゼント、どこの国のサンタさんにだって用意できないはずだと、空飛ぶソリに乗って世界中に自慢したい気持ちだ。
ばかみたいだけど、本気だよ。
「だから陸も、コレ」
言いながらポケットをまさぐり、季節外れの水色を取り出して。
パチンと、瑞紀は不格好に、前より少し伸びている前髪にくっつけた。
「おれにクリスマスプレゼントな」
そう笑うと、つけ方がへたくそなせいで間一髪のところをぶらぶら揺れているヘアピンを、じれったそうにすぐに外したのだった。
それからひとつずつ、小さな雪だるまを作った。
意図的に作りあげたというよりは、しゃべっているあいだに雪を触っていたら、いつのまにか雪だるまになっていたという感じ。
小石で目と鼻をつけて、小枝で手を生やした。
同じ素材のはずなのに大きさも表情もぜんぜん違う。
瑞紀ののほうがひとまわり大きくて、意外と表情がかわいい。
わたしのほうはあまりきれいな球体にならなくて、エイリアンみたいな仕上がりになってしまった。
「陸」
夏に比べると瞬きほどにさえ感じる、うんと短い日照時間。
太陽を西の地平線へ見送るころ、瑞紀がほんの少し、真剣に声を出した。
「おれ、春からこっち住むねんて」
「……え?」
なにを言われているのか、日本語の意味は理解できるのに、その含意を飲みこむまでには少し時間がかかってしまった。
「小学校卒業したら、おかんとな、ばーちゃんち引っ越してくんねやんか」
「……それって、」
「春から、ずっと一緒ってことや」
その価値を、代えがたさを、噛みしめるように瑞紀はうなずいた。
彼の横顔を見ていたら、夢みたいに嬉しくて、そう、本当に夢みたいで、いま自分がちゃんと目覚めているのか不安にすらなってしまう。
「ほんとう、に?」
「こんな嘘つけへん。なあ、中学って一緒になんねんな?」
「っ、いっしょ! おばあちゃんち、ここまで歩いてこられる場所なんだよね? だったら同じ、だよ、ぜったい!」
――ああ、神様。
ぜんぜん信じていないけれど、神様。
いままで信じたくもなかったけれど、神様。
本当にありがとう、見ていてくれたんだね、と、いまなら空にむかって手を合わせてもいいよ。
空にいるのか知らないけど、もし雪のなかに隠れているのなら、なんの迷いもしないで地面にむかって頭を下げるよ。
こつんと、ふたつの雪だるまが寄り添うようにぶつかった。
「うれしい、すごい……こんなにうれしいこと、ほかにない」
出会いの夏を経て、別離の秋。
「おれも」
しんしん、ゆるやかに、静かに、気づかないような重さで、けれども確かに想いは降り積もっていく。
再会の冬を乗り越えた先――雪解けの、春へと。
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・
“ふたりなら、こわくない”
呪文のようにくり返した
その言葉に抱かれて
解けないほどに縛られて
抗うことのできない
運命という流れを
ふたりで堕ちていく
もっと穏やかな流れならよかった
美しい
流れならよかった
・
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・
うちの前の一本道を東へずっと行った先、つきあたりの、古い煙草屋さんの前。
そこが、春からの、わたしたちの新たな待ち合わせ場所となっていた。
瑞紀がこの小さな田舎町へ引っ越してきてから、もう1か月が経とうとしている。
試着のときはサイズが大きい気がしていたセーラー服も、なんとなく、少しずつ体になじんできたような気がする。
電柱に背中をあずけ、両手は学生服のポケットに深く突っこんで。
前髪で隠すように目を伏せている横顔はいつも上機嫌ではないけど、怒っているわけでもないということ、わたしはちゃんと知っている。
町じゅうからすっかり雪が消えたあとで再会した彼は、少年から青年へと進化する途中にいた。
大きくなろうとしている体が痛くてかなわないのだと、春のやわらかな日差しに包まれながら、瑞紀は困ったように言った。
背が、ぐんぐん伸びていくね。
瑞紀は男の子なのだと、中学に上がってからより一層、思い知っている。
「おはよう」
声をかけると、伏せられていた目がゆらりと持ち上がった。
季節が変わっても、学年が変わっても、ずっと変わらない漆黒の瞳が、わたしを静かに捕らえる。
「ハヨ」
背中が電柱からふわりと離れた。
同時に、前髪が小さく揺れた。
「なんや、遅かったな? 寝坊け?」
「違うよ! なかなか寝ぐせが直らなかったの」
「ほんまか?」
くくっと笑いながら、傍らに置いていた銀色の自転車のハンドルを握り、こっちにやって来る。
少し大きくなった手がためらわずにわたしの後頭部を触った。
「ああ……ここか」
肩が大きく跳ねた。
思わず、隠すように両手で髪を押さえる。
とても美しい形をしたくちびるの口角が、いじわるに、ゆっくりと、上がった。
ぽすぽすと胸のあたりをグーで叩く。
瑞紀は弱々しいそれを受け止めながら、「なんや」と軽く笑った。
「急に触るの、禁止」
「触ってへんやん」
「なんでそういうしょうもない嘘つくの、触ったくせに」
「触っとらへんて。風でも吹いたんちゃう?」
ひ弱な追撃から逃げるようにサドルにまたがった瑞紀が、ハンドルに上体をあずけつつ、こっちをふり向いた。
「置いてくで」
どこか生ぬるい春の風が吹いていく。
その圧力が、家を出るぎりぎりまで必死にブローした髪を、そっと撫でた。
さっきわたしの髪に触れたのは瑞紀じゃなく、本当に風だったのかもしれない。
そんなわけがないのに、ばかげたことを思う。
急いで荷台にお尻を乗せた。
いつも決して安全とは言えない運転に振り落とされないよう、学生服の腰に手をまわしておく。
瞬間、スニーカーの両足がペダルを踏みこんだ。
からから、車輪の回る音が、田舎の風景に上手に溶けこんでいく。
「“急”ちゃうかったら、禁止やないねんな?」
家から学校までの道のり、山と田んぼだらけの退屈な景色を半分くらい過ぎたあたりで、瑞紀が唐突に言った。
背中越しの声が、向かい風のなかでもちゃんとクリアに耳まで届いてくるのが、不思議。
「え、なに……なんのこと?」
「最初に宣言しといたら、触ってもええねんな?」
「……なにそれ、また、いじわる言ってるの?」
「なんでやねん、禁止って陸が言うてんぞ」
横向きの体をひねり、額を背中に擦りつけた。
洗剤や柔軟剤とはまったく違う、なんだろう、お香みたいなにおいがする。
鼻の奥に残る、どこか神秘的な香り。
「……だめ。陸から触るのはいいけど、瑞紀から触るのは禁止」
風にかき消されてしまったかと思った。
だけど、瑞紀が少し笑ったのが、触れているところから伝わってきた。
「意味わからん。なんでや」
答えないで目を閉じる。
彼も、答えを求めているわけではなさそうだった。
うちの中学は、近隣の3つの小学校から生徒が持ち上がって集まってくる。
3分の1の顔見知り、そして3分の2の、知らないものどうし。
瑞紀はそのどこにも属さないでいた。
彼は、“よそ”からやってきたたったひとりだった。
そんな蓮見瑞紀という唯一無二の男の子は、入学するとまたたく間に、生徒や教師関係なく、学校にいるすべての人にとって特別な存在となった。
「――おい、蓮見ィ!」
自転車置き場から下駄箱にやって来たとたん、どこからか怒号が飛んでくる。
びくりと情けない反応をしてしまったわたしとは裏腹に、瑞紀はいたって淡々と「教室行っとけ」と耳打ちすると、上履きの踵を気だるげに踏んだままもういちど外へ出ていった。
「なんや? センパイ、こないだからえらい絡んできよるやんけ」
「テッカテカの制服着た1年が調子のってんじゃねえぞ。マジで殺されてえのか?」
「センパイこそ、そろそろその制服ちんちくりんとちゃう?」
3年生のなかでもガラが悪いと評判の先輩、その腕が胸倉を掴みかけたのを、瑞紀は面倒くさそうに片手で払いのけた。
そして、ぞっとするほど冷たい瞳をむける。
敵意や闘志などとっくに超越したような、すべての生命に価値など見いだせていないような、冷えきった目線に、相手の先輩も一瞬だけ怯んだような顔をした。
「ほんまにダルいから、二度と絡んでこやんとってな」
そう言って簡単に背を向けた瑞紀の学生服。
それを、先輩はなにかに突き動かされるように引っ掴み、その場で殴りかかったのだった。
とても、声すら、上げられなかった。
こういうのははじめてではなかった。
むしろ、中学に上がってから毎日のように目の当たりにする光景だった。
瑞紀は平気で喧嘩をする男の子だ。
そして、決して自分からは手を出さない。
今回も一発目、されるがままに左の頬で拳を受け止めた。
とても聞いていられないほど酷い音がしたけど、彼はけろりとして立ち上がると、口元を拭い、すぐに反撃に出た。
「ダルいねん、ほんま」
ひとりごとみたいにつぶやく。
相手の先輩は、ひとまわりもふたまわりも大きな体をしていた。
男の子は中学の3年間で信じられないほどの成長を見せる。
入学したての1年生と、卒業していく3年生とでは、あまりにも体格に差がありすぎる。
それでも、どんな相手にでも、瑞紀は圧倒的に強かった。
躊躇がないのだ。本当に。
同じ人間に対する仕打ちだとは、到底思えないほどに。
いつのまにか形勢はすっかり逆転し、瑞紀のほうが先輩に馬乗りになっていた。
いつもちょっといじわるに笑う目は、温度をもたないで相手を見下ろしているし、さっきそよ風のような強さでわたしの髪に触れた手は、相手の顔を容赦なく殴りつけ続けている。
「――蓮見!」
今度は別の声が瑞紀を呼んだ。
騒ぎを目にした生徒の誰かが、先生を呼びに行ったらしかった。
「蓮見、やめないか!」
「……ダル」
体育の先生にうしろから羽交い絞めにされることを拒まず、なかば引きずられるように、瑞紀は先輩の体から引き剥がされた。
朝のホームルーム前の時間。
下駄箱という目立つ場所で説教されている瑞紀の周りには、知らないうちに人だかりが出来上がっていた。
悲鳴のような、歓声のような、ブーイングのような、様々の声があちこちから上がっている。
「いったいどうしてこんなことを……」
「喧嘩売られたから買うただけや。こっちから手ぇ出してへん」
教師からの定石の質問に、顔を上げないまま瑞紀は答えた。
「過剰防衛なんじゃないのか?」
ゆらりと視線が上がる。
冷えきった瞳がつまらなさそうに相手を映した。
「やらんかったら、やられるだけちゃうんけ」
そして吐き捨てるように、そう言った。
瑞紀はそのままどこかへ連れていかれてしまった。
きっと1時間目が始まる直前まで、生徒指導室でこっぴどく説教をされるのだろう。
彼に言わせれば、いつものコース、らしい。
口元に拭いきれない血をにじませながら、心底かったるそうに、それでもなんの反抗もしないで教師についていく背中は、とても独特で不思議だった。
――どうしてこんなにも、目が離せないの。
ふっと視線を上げた瑞紀のそれと目が合う。
ついさっきまで、自分と同じ人間に対してなんの感情もなさそうにしていた瞳が、信じられないほどやわらかくわたしを映しだした。
血が出ているところがすごく痛そう。
いますぐ駆け寄って、大丈夫かと撫でたいのに、どうしてもできない。
「蓮見くんって、ほーんとかっこいいよね」
「そう? 怖そうでわたしはちょっとヤだなあ」
「あいつマジでチョーシ乗ってるよな」
「とか言っておまえ、ビビッて手出せねえだろ」
「あいつは本当にどうしたものか……」
「実際、蓮見から手を出してないのは本当ですしね」
「ああいうのがいちばん教師泣かせの問題児だよ」
集まってきていたギャラリーから様々な声が上がる。
好奇と嫌悪、いろんな感情が入り混じった雑音から逃れるように、人ごみをかき分けていく。
「――でも、蓮見くんって長谷川さんとつきあってるんでしょ」
いきなり向かってきた刺すような言葉に、廊下を擦っていた上履きの動きが止まった。
「つきあってないらしいよ? こないだ、長谷川さんが同じ小学校のコに聞かれて、めちゃくちゃ否定してた」
「え、そうなんだ。じゃあなんで一緒に登下校してるんだろ?」
「知らなーい。でもほら、長谷川さんちってアレじゃん?」
会話を続ける同級生は、わたしがいま近くにいることを知っているのか、知らないでいるのか、わからないけど。
どうしても体が委縮する。
手のひらに汗をかく。
動悸がする。
べつに、悪口を言われているわけでもないのに。
「ボッチどうしで仲良くしてるのか……それとも、蓮見くんが長谷川さんの“お気に入り”とか?」
「なにそれ、ウケる。蓮見くんカッコイイもんね」
「顔もそうだけど、オーラとかただ者じゃないよね。隣に連れて歩いてたら絶対鼻が高いよー」
「ま、うちらレベルだと話しかけるのも無理だけどね」
蓮見瑞紀という男の子は、あまりにも特別な、唯一無二の存在だ。
それははじめて会ったときからかすかに感じていたことだけど、中学に上がり、わたしたちの世界がふたりきりじゃなくなってから、より可視化された。
瑞紀はどこにいても、なにをしていても、その場にあるすべての視線をさらっていってしまう。
ある人からは、好奇の対象として。
またある人からは、嫌悪の対象として。
あるいは、もしかしたら、畏怖の対象として。
それは彼の生まれ持った容姿のせいかもしれないし、誰とも馴染もうとしない態度のせいかもしれない。
なにをも恐れない強さのせいかもしれないし、あまり感じられない温度のせいかもしれない。
その起因となる正体が何なのだとしても、間違いなく、彼を中心として強力な重力が働いている。
そしてそれに引っぱられているのは、ここにいるギャラリーに限ったことでなく、わたしもまったく同じなのだ。
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