「俺は、この近くの消防署に勤務する消防士……だった。予定日が近づいて綾華が入院してからは、仕事場と病院をバイクで往復してた。今日も……」
そこまで話したとき、弘樹の顔が悔しそうに歪んだ。
「今日は夜勤明けだったんだ。朝方、いつも通りに仕事を終えて病院へ向かってた。そこで事故が起きたんだ。……俺は、トラックに衝突した」
弘樹は、そこで言葉を切った。その手が小刻みに震えている。
「それで、体から離れた魂がこの公園に辿り着いたのね」
弘樹の後を次いで、キズナが優しく言った。
「この公園は、俺が綾華にプロポーズした場所なんだ」
弘樹は懐かしそうに目を細め、公園内を見渡す。が、次の瞬間にその顔に陰りが見えた。
「もうすぐ、俺達の子供が生まれるんだ。頼むから、綾華の所へ行かせてほしい」
キズナは、しばらく悲しそうな瞳で弘樹を見つめていたが、やがてゆっくりと言葉を発した。
「……わかったわ。でも、これだけは忘れないで。あなたはもう死んでいる。死んだ人間が生きている人間のために出来る事なんて、一つもないの」
弘樹は小さく頷き、踵を返して走り出す。
……不思議な感覚だった。
走っていても、地を蹴る感触はない。走るというより、滑ると言う方が正しいかもしれない。
見慣れた景色が、流れるように弘樹の横を通り過ぎてゆく。
どんなに走っても息が上がらない。あんなにも力強く鳴っていたはずの鼓動。今は……何も聞こえなかった。
しばらくして、弘樹はある病院の一室の前に立っていた。扉の表札には『松永綾華』と書かれてある。
弘樹は気を落ち着かせ、静かに扉を通り抜けて部屋に入っていった。
清潔感のある部屋の中央には、白いベッド。その上に、今にもはち切れそうなお腹を抱えた女性が座っていた。
肩に掛かる程の黒髪を結って右肩に流しているその女性は、声を押し殺して泣いていた。
彼女の手には携帯電話が握られている。恐らく、弘樹の死を誰かに知らされたのだろう。
「綾華……」
弘樹が小さな声で呼んだが、綾華は反応せず、ただひたすらに泣いている。