「あの少年は、すでに引っ越してしまったらしい。しかし、またここを訪れるかもしれない……そう思って待っていた。だから、私はここが片付けられるのを阻んだ。ここを片付けてしまうと、少年は二度と戻ってこない気がしたから」


健はそう言いながら立ち上がり、ベランダらしきものの近くへ行って、下の道路を覗いた。キズナが歩いてきた小道の隣の筋の道路だ。


「しかし、少年は一度も現れなかった。日が経つにつれ、私は疑問を持ち始めた。『なぜ少年は一度も訪れない』? あの事件を……私の死を……忘れてしまったのだろうか」


健の瞳に悲しげな光がよぎった。


「あの日、炎の中に飛び込んだことは後悔していない。ただ、少年にだけは会いに来てほしかった。元気な姿を見せてほしかった」


健がベランダを離れ、何もない部屋の真ん中に座り込んだ時、涙が頬をつたって流れるのが見えた。


「私が逝ってしまえば、ここも撤去される。そうすれば……いずれ周りの人間にも、あの少年にも忘れ去られる。そう考えると、耐えられなかった」


震える声でそう言うと、健は下を向き、涙を拭った。キズナはただ黙って、そんな健の姿を見つめている。


「少年への疑問は、しだいに死への疑問に変わっていった。……なぜ、私は死ななければいけなかった? 私にだって守るべき家族がいた。疑問が少しずつ怒りに変わり、苦しみに変わった」


「三ヶ月も霊となってここに留まってきたんだもの。現世の陰の気に飲まれていくのは当然」


キズナが悲しげに呟いた。


「私は忘れられたくない。だから、私は天には逝かない」


健は、再び冷たい目でキズナを見据えた。


キズナは少しの間黙っていたが、ゆっくりと……そして静かに口を開いた。


「このままだと、いずれあなたは悪霊になる。……本当は気付いてるんでしょう? 留まっても何の意味もないことに。死への苦しみや怒りが募るだけ。それでも、まだ留まりたいと思うの?」


「私の考えは変わらない」


健は強い調子でそう言うと、再びベランダに向かって歩いていってしまった。