「真央の話はこれでおしまい。次は俺の本題」
真面目な口調に変わった拓海は立ち上がって掛けていたスーツから何かを取り出し、私は少し温くなったコーヒーを飲みこむと視線を向けた。
「何?」
「これを奈央に渡そうと思って」
四角い小さな箱を手のひらに乗せられる。
「こ……れって……」
「先週、離婚届を出してきた。慰謝料は今の家を明け渡す。それで両家が納得した。俺、ちゃんとけじめつけたから」
拓海の言葉に体が震える。
「開けて」
促されて、箱にかかっている白いリボンをゆっくりと解く。
蓋を開けると、赤色のレザーケースが目に入る。
箱からレザーケースを取り出し、蓋を開けた。
「これ……」
「9号だったよな」
蛍光灯の明かりでキラキラ光っているのはダイヤ。
プラチナ台でVカットの指輪には少し大きめのイエローダイヤと周りにかわいいダイヤが嵌めこまれている。
「やっと奈央にプロポーズできる」
「拓海……」
「俺は、奈央とこれからずっと一緒に居たい。俺の横に居てくれませんか?」
「……」
「奈央。俺は奈央を想う気持ちは誰にも負けない。俺の運命の相手は奈央なんだって思ってたから」
「……拓……海」
突然のプロポーズに戸惑ったものの、じわりじわりと嬉しさがこみ上げる。
拓海は私の手にある指輪のケースから指輪を取り出す。
左手を持ち上げられ、薬指が冷たい金属と触れ合う。
薬指にはめられた指輪を凝視したまま動けずにいる。
――夢……?
だけど、かすかに違和感のある指への感触が事実だと告げていて。
「長い間、辛い思いさせてごめん」
拓海は私の左手を口元に持って行くと、指輪にキスを落とす。
「あっ、ありが……とう」
嬉しくて嬉しくて……
私はその一言を口にするだけで精いっぱいだった。
週末、久々に実家へ戻った。
リビングで拓海と2人、兄と向かい合った。
拓海は奥さんと離婚した事、慰謝料の事を話す。
机を挟んだ前に座った兄は、腕組みをしながらも穏やかな顔で。
「先日、奈央さんにプロポーズをしました」
「そうか」
兄は私を見ると、ニッコリと笑ってくれる。
「幸せそうな顔だ」
そう言ってから、もう一度拓海へと顔を戻した。
「藤井さん。二度と奈央に辛い思いはさせないで欲しい。もう苦しむ妹の顔は見たくないからね」
そう言うと、手土産で持ってきた手つかずのケーキにフォークを入れる。
美味しいと言いながらケーキを食べる兄を見て、笑みが零れた。
「ところで、式はどうするんだ?」
ケーキを食べ終え、2杯目のコーヒーを入れた私が座ったと同時に兄からの問いかけ。
「拓海はちゃんと挙げようって言ってくれてるんだけど……私は婚姻届を出すだけでいいと思ってる」
――最近、拓海との衝突はこの事だった。
拓海からは何度も式を挙げるべきだと説得されるけど……
私は初めてでも拓海は2回目で。
どうしようもない事実だと分かっていても、躊躇う気持ちがある。
「和装はどうなんだ?」
「わ、和装?」
「奈央は白無垢も似合いそうだと思うけどな。兄の欲目か?」
「奈央の白無垢は見てみたいな」
兄と拓海にたたみ掛けられ、返事に詰まってしまう。
数ヶ月前には考えられなかった話の内容に段々と自分の躊躇する原因がちっぽけに感じた。
その時……
「奈央。1度しか経験できないんだぞ?子供にお父さんとお母さんの結婚式の想い出を話してあげたくないのか?」
「……子供……」
「奈央だって……」
兄は一旦口を噤むと拓海の顔を見て微笑んでから……
「……拓海君だってまだ若いんだから、これからチャンスはいくらでもあるよ。まぁ、俺が先に結婚して奈央の事『おばちゃん』って呼ばせたかったんだけどな」
兄は苦笑しながらコーヒーを飲み干していて。
――『拓海君』
兄が拓海を受け入れてくれた。
たった一言の事なのに、嬉しくて涙がこみ上げる。
この世で2人しかいない兄妹の兄に拓海を受け入れてもらえた事は私にとってこれだけ衝撃を受けるとは思っていなくて。
思わず首を縦に動かしていて。
「ありがとうございます……お義兄さん」
拓海も同じ事を思ったのだろう。
頭を下げながら言った言葉は微かに震えていた。
そんな私達に兄は穏やかな笑顔のまま……
ではなかった。
「じゃあ俺はちょっと出掛けるから」
「……は?」
徐に立ち上がった兄に、驚いて目を見開いた。
今日は私達が来るって言ってたのに?
出掛ける?
さすがに兄だけあって、私の表情を見て何が言いたいのか気付いていて。
「まぁ、今日はお前達が挨拶に来るって言うのは分かってた。だから……」
兄は少し顔を赤くして、ポリポリと人差し指で頬を掻いている。
「お兄ちゃん?」
「俺もお前達に紹介したい人がいるから。駅まで迎えに行ってくる。夕飯は4人で食べようか」
「え?そ、それって……」
「俺もいい年だし、そろそろ身を固めようと思ってたんだ。だから身内のお前達にもちゃんと紹介したいと思ってな」
照れたように頭を掻きながら「じゃあ迎えに行ってくるから」と言ってリビングから出て行った。
「……」
「……」
残された私達はしばらく無言で。
「……俺、お義兄さんに認めてもらえたんだよな?」
「……お兄ちゃん、彼女いたんだ」
同時に呟いて。
同時に顔を見合わせて。
――同時に笑った。
それも吹き出してから零れ出るかのように……
幸せってこういう瞬間の積み重ねなのかもしれない。
『運命』
最初に電車で出会った時に拓海との運命の歯車が小さく軋んだ。
会いたいと何度も願って、歯車が動きだし……
再び巡り会う事が出来た。
運命に感謝もしたし恨みもした。
お互い傷ついて。
傷付けあって。
私は何度も手を離そうとした。
それでも……