彼と私の関係〜もう1つの物語〜




私は水滴のついたグラスをキュッキュッと拭きながら、真央の言葉を待った。



「……修ちゃんが家に挨拶へ来るって」


「おめでとう」


「ありがとう」


「もう挙式の日は決まったの?」



私の問い掛けに無言で首を振る。



「でも、挨拶って事は修ちゃんサンもいよいよ本腰を入れたんだね」


「……綺麗……」



真央は私の質問に答えず、手元にある磨かれたグラスを見ていて。



「藤井さんは?」


「今日は奥さんの実家」


「そう」



私を心配してくれる真央は、こうして拓海の事を聞きはするけどそれ以上は言わない。



最初に真央がお店に訪れた時、拓海とは別れなかった事を話した。








軽蔑されても仕方がない。



――だけど、これが私達の距離と形だから。



真央は非難する事も冷たい視線を送ってくる事もなく、ただ「そう」と呟いただけで。



『ゲームオーバー』



真央の言いたい事は十分理解していた。


私だって、会社を辞めた時点ですべてをリセットしようと思っていたから。



だけど、拓海の気持ちを……


私への愛情を最後は切り離す事が出来なかった。



弱い自分……


すぐに考えが覆ってしまういい加減な自分……



『奈央さん自身の気持ちはどうなんですか?』



ネガティブになった時、必ず頭を過るマスターの問いかけ。


すると、揺るぎない自分の想いが溢れだす。








拓海が好き。


自分の一途な気持ちに毎回苦笑する。



「嬉しそうだね?」



真央の問いかけに意識が浮上した。



「私も奈央みたいな恋をしたかったな」


「ん?」


「ごちそうさま」



気が付くとアプリコットクーラーはすでに飲み干されていて、カタンと席を立った真央を静かに見守る。


穏やかに微笑む真央はいつもの真央で。


コースターの横にはいつもの金額が置かれている。



「奈央、またね」



ヒラヒラと手を振ると、マスターに会釈してお店を出て行った。



何かあったんだろうか?


もしかして……



真央は修ちゃんサンとの結婚に迷っているのだろうか?



ふとそんな些細な疑問が頭を通り過ぎた。








バーで働きだして2年が過ぎた。


マスターは時々、私にお店を任せてくれるようになっていて。


これは信頼してお店を預けてもらえると言う、マスターからの最高の賛辞。



最初はドキドキしたけど、来店するお客さんはほとんどが常連さん。


時々、新しいお客さんが来るけどお店の雰囲気を壊すような人は居ない。



私は常に口角を上げて穏やかに微笑む。


無理はしていない。


ここでの時間で心地よくなって帰って欲しいから。



話しかけてくるお客さんの話に耳を傾ける。


片想いの話、彼氏彼女との喧嘩、別れ。


そして不倫や浮気の話。








私だけじゃなく、同じような道を歩いている人が他にも居るんだと教えられる。


頑張ってとは言えないけど、自分が後悔しないようにと心の中で呟く。



恋愛マスターみたい。


自分の思考に笑いがこみ上げる。



「マスターが居なくても貫禄が出てきたね」



とある常連さんから言われた一言に私は苦笑した。



「まだまだですから」


「奈央ちゃん、謙遜しすぎ」


「あっ、次何を飲まれます?」


「ん〜っ、じゃあテキーラベースのカクテルで」


「かしこまりました」



常連さんの顔を見て、一瞬閃いたカクテルを作ろうとカウンターの後ろにあるボトルへと手を伸ばした。








こうして毎日が過ぎて行く。


穏やかな日常。



それが少しだけ崩れたのは……


季節が夏を終えようとしていた頃だった。





最初は驚いて思わずカウンターの下へしゃがみ込んだ。


常連さん以外の顔。


そして私が知っている人。



「へぇ〜隠れ家みたい」



知ってる声が私の耳を通り過ぎる。



「いらっしゃいませ」



突然しゃがみ込んだ私を一瞬心配そうな目で見たマスターは声の主へは穏やかに微笑んでいた。



「1人だけど」


「そちらのテーブルへどうぞ」



マスターが促したのは入口近くにある2人掛けの丸テーブル。


彼は進められるまま移動した。








その隙に、カウンターの奥にあるバックヤードと更衣室を兼ねている控室へ這って行く。


気付かれないようにと願いながらドアを静かに開けて振り返ると、ちょうどドアと彼の対角線にマスターが立っていた。



音を立てないように気を付けながら控室へ入ると、少しだけ扉を開けて息を潜める。


マスターと彼の会話がとぎれとぎれに聞こえていて。


スルリとカウンターへ戻ってきたマスターは彼が不審に思わない自然な動作でこちらへと近づいてきた。



気を付けて奥へと移動する。


静かに扉を開けて入ってきたマスターは一言だけ声を掛けてくれた。








「大丈夫?」


「前の……会社の同僚なんです」


「あぁ。分かりました」



マスターは頷くと「彼が帰るまでは棚卸をしておいてください」と言ってPCの横に置いてあったバインダーを手渡してくれた。


そして、さっきと同じように少しだけ扉を開けたまま店へ戻る。


マスターの気遣いに感謝しながら、ほとんど終わっている棚卸の最後だけを手伝った。



1時間ほど彼はマスターと話しながらここでの時間を過ごし「また来ます」と言って帰って行った。


それから何度かこの店を訪れるようになった彼。



――高橋さんだった。



その都度私は隠れて様子を伺っていた。








そして今日はもう1人の知ってる人を伴って来た。


今日はたまたま空に近くなったウイスキーを取りに控室へ入った時。



「いらっしゃいませ」



マスターの挨拶する声の後、高橋さんの声が聞こえた。


見つからないように息を潜める。



「カウンターでよければどうぞ」



そう言って、控室近くになるカウンター奥へと2人を案内した。


今日は他にも何人かお客さんがいる。


そこへと案内したのは仕方のない事。


マスターは私が隠れている事を承知しているかのように少しだけ控室の扉を閉めるけど隙間を開けてくれていて。



「マスター久しぶり」



高橋さんの声がはっきりと聞こえた。