――優しさの中に秘められた、男の顔を見せて欲しい……
なぜそんなことを考えたのか。
『奈央が好きだから……抱きたい』
彼から言われたさっきの言葉。
「後悔……しないから……」
両手で彼の顔を挟むとゆっくり自分の方へ引き寄せる。
彼は私のされるがままで。
少しだけ頭を上げて
――自分から彼の唇へキスをした。
私が主導権を握ったのはこの時だけ。
どうなったのか覚えていない……
彼に服を脱がされ、私はただ喘ぐだけで。
唇のキスは耳へ首へ鎖骨へと徐々に下へ降りて行く。
彼が触れた場所は熱を持ったかのように熱く。
愛撫されるたびに自分のものとは思えないぐらいの甘い声。
溶けて……
溶けて…………
「奈央……好きだ」
彼の口から何度も想いを告げられる。
その想いが私をさらに溶かしていき。
「……私も……好き……っ」
抱きしめる広い背中は少し汗ばんできていて。
体全部で彼の存在を確かめる。
「奈央……奈央」
「……た、拓海……」
――愛してる……
報われない恋だと思っていた……
自分だけの一方通行だと思っていた……
彼の気持ちを直接聞いた今……
私は心地よい鎖に縛られてしまったのだと感じた。
それでも構わない……
彼に奥さんがいても……
私の存在が必要ならば、身も心も捧げるから……
私は縛られた鎖が解けないように自分自身の手で
――鍵をかけた……
拓海が私を抱いてから1年。
相変わらず仕事は順調に営業成績を伸ばし、周りから藤井部長の片腕だと言われるようにまでなっていた。
私も拓海もお互い素顔を隠した。
――隠し通していた。
絶対にバレてはいけない。
――暗黙の了解だった。
彼と少しでも一緒に居たければ、社内での立場が大切で。
彼には帰る家があるから。
それが例え迎える人が居なくても。
それでも時々、彼は私の家の住人となる。
この1年で彼の私物が殺風景な部屋を占領し始めた。
スーツ、下着、私服、歯ブラシ。
そしてお揃いで買った数種類の食器。
お互い忙しかったけど、早く終われる時はスーパーに寄ってから帰宅する。
拓海は料理が上手だった。
「なんで?」
私の作ったものより美味しいし。
問いかけに対しては「一人暮らし歴が長いし、料理って没頭できるだろ?」という答え。
奥さんとの結婚生活より別居状態の年数が長い拓海。
一緒に居ても時々、奥さんの実家から連絡がある。
最初は「ごめん」と言いながら向かっていた彼も、今では「忙しくて行けないから」と断る回数が増えてきた。
最初は寂しかったけど、私を優先してくれるようになった拓海に嬉しさを隠せない。
今日は先に仕事が終わったので、私が帰宅してから作ったパスタを食べながら拓海が口を開いた。
「そういえばさぁ」
「何?」
「奈央っていつから俺に惚れたの?」
素顔の拓海は、喜怒哀楽をしっかり顔に出す年相応の男性だった。
物静かで穏やかな会社の顔とは全く違う、私だけに見せる素顔。
「え〜内緒?」
「何で?」
「だって、恥ずかしいでしょ」
「知りたいな」
フォークをお皿に置くと、肘を付いて指を組んだ両手の上に顎を乗せていて。
しっかりと聞く体制を整えている。
これは話すまでこのままかも知れない……
溜め息を付くと、私は話し始めた。
入社する前、電車の中で拓海を見かけた事。
気になって仕方がなかった時、就職した会社で出会った事。
話し終えて拓海へ視線を戻した時、彼は目を瞑っていて。
「最初の出会いの時……」
静かに語り始めた。
――拓海は子供が欲しかった。
結婚して1年が過ぎ、奥さんが妊娠した時は手放しで喜んだらしい。
それが9週目に入ったところで流産となった。
産婦人科に付き添い、超音波で心音を確認して画像でまだ形をなさないこれから産まれてくる子に想いを馳せていた時。
奥さんと同じぐらいショックを受けたらしい。
流産の手術の後、絶対安静を言い渡されていた奥さんは、拓海の知らないところで無理をしていたらしく
1カ月ほどして倒れたと奥さんの実家から連絡を受けた。
それから奥さんの体調は元へ戻らず、調子の悪い時は起きられないほどで。
ちょうど課長へ昇進した頃で、仕事も忙しく帰宅が遅くなる拓海は実家へ戻る様に説得したらしい。
そして、別居という選択肢を選んだ。
少しずつ体調が快方へと向かっていた頃……
奥さんが通院していた病院の血液検査に引っ掛かった。
大病院で精密検査の結果……
子宮癌が発覚した……
手術を受けると、子供を産める可能性がなくなるかもしれないと宣告を受けたらしい。
――子供が産めなくなるかもしれない。
子供を欲しがる拓海の気持ちを知っている奥さんは手術を拒んだ。
だけど、このまま放っておけば奥さんの命に係る。
奥さんの家族と拓海は説得した。
手術を受けるようにと。
手術の結果……
――奥さんは子供を産めない体になった。
「たぶん、奈央が俺を見た日はその結果を医者から告げられた日だと思う」
拓海は寂しそうに笑った。