「奈央」
再び彼に呼ばれ、もう一度目線を戻すと……
有り得ないぐらいの至近距離にある大好きな彼の顔。
その瞳が細められると同時に、少しだけ彼の顔が傾く。
――そして……
私の唇に彼の柔らかい唇が……
触れた……
目を見開いている私を彼は見たまま。
……キス……?
唇が触れ合っているのに、視線は絡まったまま。
一旦彼の唇が離れると、少し綻んだ。
――その唇が私に触れた?
「キスの時は目を閉じて」
綻んだ唇から零れた言葉に、今まで大人しかった心臓が急速に心拍数を上げていく。
これって……
この状況って……
彼の顔が再び近づいてきて。
『キスの時は目を閉じて』
さっき言われた言葉をやっと理解した頭。
心はまだ戸惑っているのに……
信じられない出来事について行けないのに……
自然と瞼が下りてきて。
――再び唇と唇が触れ合った。
それは最初と違って押しつけられたような感覚。
心がやっと追い付いてきて
彼とのキスを
もっと……
もっと……
顔を傾けるとより深く彼を感じられて。
――これが夢なら覚めないで……
腕が……
手が……
すぐ傍にいる彼を求めて、彷徨い……
彼の手に導かれて届いた場所を通り抜け、背中へと回す。
キスだけで体の力が抜け落ちて行く。
無意識でしがみついた彼の体はビクともしない。
下へ下へと下がる体を、彼の腕が支えてくれていて。
唇を合わせたまま息苦しくなった私は酸素を取り入れたいと口を薄く開いた。
私に侵入してきた彼の舌が中を動き回って。
――舌を絡め取られる……
その刺激が気持ちよくて。
このまま……
死んでもいい……
もう十分だから……
ありがとう……
――拓海さん……
帰りの車中はお互い無言だった。
彼は普段していない眼鏡をかけて前を見ている。
流れる景色をボンヤリ見ながらも、全神経が右手へ集中している。
その手は彼の左手と繋がっていて。
時々ギュッと握られると、これは夢じゃないと。
ホントに彼と手を繋いでいるんだと分かる。
――『奈央が好きだ』
浜辺で聞いた彼の台詞。
今になってジワジワと胸を熱く焦がしていく。
彼はホントに私の事を?
私を気遣ってくれただけ?
グルグルといろんな考えが頭を駆け巡る。
この無言の静寂が……
ただ……
怖かった……
「ナビしてくれる?」
静寂を破ったのは彼だった。
気が付くと景色は見慣れたものへと変わっていた。
入社して半年してから1人暮らしを始めた自分の住む街。
タクシーの運転手さんに説明するように、彼にも自宅までの道を伝えた。
日頃、車に乗らないのに彼は安全運転で。
これも彼の性格を表しているみたいに感じた。
「ここです」
毎日歩いている道を辿れは、自宅のマンション前。
静かに車が停止した。
彼の左手が私の右手から解かれ、シートベルトを外す。
後部座席へ身を乗り出した時に私の鼻孔をくすぐった彼の香り。
それがすぐ甘い香りへ変化したのは
「忘れないように」
レストランで彼からもらった花束だった。
黄色と白で統一された花束は、彼の持つ私へのイメージだと言った。
こんなに爽やかじゃない。
こんなに綺麗じゃない。
だけど、初めて貰う彼からのプレゼント。
嬉しくて仕方がなかった。
「ありがとうございました」
運転席へ体を戻した彼に頭を下げてお礼を言う。
社内のデジタル時計はもうすぐ22時。
このまま車を降りると……
彼との時間が……
――終わってしまう……
「気を付けて」
聞こえる彼の声はいつもの穏やかな声で。
さっきのキスが夢みたいに感じる。
だけど唇は彼の感触を覚えている。
どうしよう……?
まだ……
――彼と離れたくない。
もう少しだけ……
誕生日の今日だけ……
あと2時間だけ……
「時間を……貰えませんか?」
――あと2時間、一緒に過ごしてもらえませんか?
「……いいよ」
どうしてちゃんと伝えていないのに、彼には伝わるのだろうか?
彼は近くのコインパーキングへと向かい車を止める。
ドアをロックして車の前方へ歩いてきたのはほぼ同時。
無言で差し出された彼の手を、今度はしっかりと握る。
部屋へ誘うということはどういう事なのかぐらい分かってる。
これから起こりえることだって十分。
彼も分かっていて車を降りた。
――1度だけでいい……
彼の気持ちを聞いた私に現れた新たな願望。
花束を貰っただけでは満足できていない欲張りな私。
今日は私の特別な日だから。
縋らない、困らせないから……
素直に
――抱かれたい……
と言ってもいいですか?
1度だけでいい……
貴方に抱かれたい……
そう思うのは……
罪……
ですか……?
家の鍵を開けて靴を脱ぎ、彼を中へ招き入れる。
1DKの小さな私の部屋。
あまり物を置くのが好きではなかったから、必要最小限のものしか詰め込まれていない。
部屋の明かりを付けようとスイッチに手を伸ばすと
その手が強引に引っ張られる。
彼の胸へと倒れ込んだ私は、なぜか冷静だった。
「ごめん、奈央……」
きつく抱きしめられ、彼の震えが伝わってくる。
――彼は迷っている。
このまま私と流れてしまってもいいのかと。
なぜ……
――彼の考えている事が分かるんだろう?