やっぱり、千尋の存在は大きかったから。
先輩に遊ばれて、何もかもやる気のなくしたあたしに、千尋はもう一度恋を教えてくれたの。
もう傷つきたくなくて、いっぱい泣いていたあたしを、面倒なはずなのに、毎日優しく頭を撫でてくれた。
あたしが泣き疲れて眠るまで、その温もりは消えなかった。
あの温もりが、あの時のあたしを、どれほど救ってくれたか。
男なんて信用できない。
男なんて怖い。
そんな想いごと、千尋は全て取り去ってくれたから。
だから、やっぱり千尋へ贈る最後の言葉にふさわしいのは『ありがとう』が、一番良い。
あたしに勇気をくれて。
あたしに温もりをくれて。
あたしを愛してくれて。
それが偽りだったとしても、その偽りの瞬間は確かに幸せだったから。
だから、ありがとう。
泣いて泣いて泣いて。
飲んでわめいて騒いで。
もう充分だろう。
「あんた、いつ帰るん?」
「おったらあかんの?」
思い出していて、また涙ぐんだ時、煎餅をボリボリ食べる母さんに現実へと戻された。
「邪魔やもん。
早く帰って仕事いけ」
これが傷付いた娘への言葉か。
まぁ、何で帰って来たのかは教えてないけどさ。
でも、まだ2日しかいない。
だったら、まだいてもいいんじゃないのか。
「後一つ、早く帰ってほしいことがあんのよねぇ」
「なによ?」
そんなに追い出したいのか、鬼婆め。
顎をコタツの上に置いたまま、煎餅に手を伸ばした。
ああ、行儀悪いな。
でも寒いから、丸くなって暖まりたいんだもん。
ボリッと煎餅を割って、片方を口にくわえ、もう片方を手に持ったまま、その手をあたしの背後に向けたお母さん。
あたしの後ろには、先程までいた縁側、つまり小さいけど庭がある。
いったい、なんですか。
「さっきから、家垣から顔を覗かせている、えらい男前の兄ちゃんがおってな。
あたしには、あれはあんたが連れてきた幽霊ちゃうかって恐ろしいのよ」
は? 幽霊?
それは、ただの不審者ではないのでしょうか。
でも、お母さんの言った男前の兄ちゃんが気になった。
…………まさかね。
「……うそ」
千尋だった。
あれは、あたしが想いすぎたために見た幻覚か。
いやでも、お母さんには見えている。
挙動不振に、家の周りをウロウロしていた。
背が高いから、千尋がよく被る黒のニット帽が見えているんだ。
え? え?
これは、なんだ?
「早く追い返してきたら、まだおること認めたるけどなぁ」
「え、あ……わかった」
とりあえず、外に出てみよう。
見間違うはずはないけど、もしかしたら千尋のそっくりさんかもしれない。
それならそれで、神様は意地悪だよね。
人がせっかく忘れようとしている時なんだから。
それでも、あれはやっぱり千尋だ。
千尋がいる。
なんのために?
何で、あたしの実家に?
あ、もしかして勝手に逃げたから文句を言いに来たとか。
うわぁ、どうしよう!
ドキドキしすぎて、頭の中が混乱している。
玄関でウロウロしていると、タイミングよくピンポーンと鳴った。
―ドキン!!
ち、千尋かな?
古い家の硝子引き戸には、くっきりと長身の影が映しだされていた。
戸を開けようとする手が震えてしまう。
開けたら、千尋がいるんだ。
会ってどうする。
泣いちゃうかもしれない。
また、惨めな思いするかもしれない。
嫌なのに……。
でも会いたいと思う気持ちの方が、何倍も強くなる。
「……欄やろ……」
え?
戸の向こうから、千尋に名前を呼ばれた。
「開けてや……話があんねん」
話って、なに?
静かに戸を開けた。
あたしの視線の先には、スーツ姿の千尋がいて。
あの瞬間。
裏切られた日の、千尋の姿を思い浮かばせる。
「欄……」
音を辿るように、千尋の顔を見上げたら、きっと涙で滲むと思ってた。
なのに、不思議と
涙は流れなくて。
ただ、静かに時は流れてたんだ。
千尋と近所の空き地に移動した。
「どっか、二人になれる場所ない?」
だったら、小さい頃、よく遊んでた空き地にしよう。
何もない空き地だけど、あたしには小さい頃の思い出がある場所だった。
「秘密基地とか、作ったことある?」
「秘密基地?」
小さい頃は、自分だけの居場所がなくて。
隠れ家的なものに憧れた。
「此処にな、いらんダンボールとか持ってきて作ったことあんねんよ」
「……そうか」
興味ないよね……。
こんなところに来てまで何の話してるんだって、自分で自分がおかしくなる。
「――あるよ、俺も。
婆ちゃん家の近くにな、丁度ええ洞窟あって、そこに自分の好きなもん置いたりしてたわ」
懐かしむ声に、あたしは微かに笑えた。
良かった。
心から良かったと思える。
今千尋に会えば、ギスギスしたムードしかならないと思っていた。
だけど、それが嫌で。
だから、わざと子供の頃の話なんてしてみた。
千尋も話に乗ってくれたし。
これなら、ギスギスせずに話せるかもしれない。
「欄、なんでや……」
ズボンのポケットに腕を入れた千尋。
スーツ姿だから、千尋ではないみたいだ。
「驚いた。
用事があって出かけてて、帰っても、欄はいつまでたっても帰ってこん」
「――用事って何をしてたん」
そう聞いた瞬間、千尋の表情が険しくなった。
黒い瞳をウロウロさせている。
「……あの日ね、あたし早退したんよ」
千尋は言えないんだ。
言えないということは、やましい気持ちがあるんだよね。
戸惑っている千尋なんて見たくない。
だから、まだ冬だというのに咲いていた小さな花へと視線を移した。
季節を勘違いしたのかな。
まだまだ、寒いのに。
小さな花は、懸命に空へと向かって咲いていた。
「家に帰ったら、千尋は出かけるとこやった。
駅に行ったら、千尋がスーツ着てた」
あの日、この目で見たもの全てを話していくうちに、気持ちまでもが戻っていく。
下を向いていたせいで、目がかすんでいった。
泣いちゃ……だめだよ。
泣くのを我慢するために、小さな花と同じように空を仰いだ。
空は、曇ってた。
まるで、あたしだ――。
「千尋が女の人とおるんも見た……」
「……欄」
一定の距離をあけて、千尋がうつ向いている。
ダルそうに首を捻る姿が、グサリときた。
「――わかってるよ。
あたしは、客やってんよね」
攻めるつもりはない。
攻めたって、仕方ない。
わかってるのに……。
わかってるのに、次々に口から出てしまう言葉は。
何もかも、千尋を疑う言葉ばかりで。
千尋にウザがられてしまうとわかっているのに。
「なんで……。
なんで、言うてくれんかったの。
あたしの事、好きなんて……嘘つかんでも、あたしは千尋の客でおったよ」
止まらない。
だって、正直に言ってくれていたら、
あたしは、千尋の客としていることが出来た。
千尋に側にいてほしい気持ちは変わらないから、
ずっとは無理でも。
千尋を指名したのに……。
なのに、騙したりするから、一緒にいることが辛くなってしまった。
どうせなら、ずっと騙されていたかった。
そうしたら、ずっと。
ずっと、千尋と一緒にいられたのに。
塞ぎ込んでいたら、千尋の大きな溜め息が聞こえた。
ビクンと身体が固まってしまう。
「……あー、ごっつごうわくわぁ」
「…………」
ワシャワシャと髪を荒い手付きでかきまわして、ダランと身体を傾けている。
「なんやねん、さっきから……」
手を止め、こちらを睨むように見る千尋。
千尋が、千尋じゃない。
今までの穏やかな千尋はいなくて、ちょっと怖い。
いや、ちょっとじゃないかも…………。
「欄が言いたいことはそんだけか?」
「……え、えっと」
そんだけって。
何だか、あたしが思い悩んでいることは、千尋からすれば何でもないことのように感じる。
「俺が、浮気でもしたと思ったか?
裏切られたと思ったか?」
腕を組みながら、ゆっくりと近づいてくる。
あたしは、その近づいてくる距離に戸惑ってしまう。
目の前に千尋が立った。
ドキドキ――。
おかしいな。
何で、あたしが緊張しなきゃいけないの。
何で、あたしがこんなにおどおどしてるの。
千尋を攻めていたはずなのに、何故か攻められているような気がした。
見上げたら、やっぱり睨まれている。
でも、
冷たい眼差しとは、
違う?
「……何で、信用せんのや」
顔を横に向けて、小さい息を吐いた。
信用……。
「……してたもん」
あたしは、千尋は違うって信じてた。
先輩とは違う。
あたしを騙したりしないって………。
「信じてたのにっ。
信じてたのに……、千尋が」
「女と会ってたら、俺が裏切ったことになるんか?」
「ちがっ――」
そうじゃないよ……。
そりゃ、女の人と仲良くしてる姿なんて見たくない。
だけど、それで千尋を縛るつもりはない。
「確かに、欄に言わんと会ってた。
やけど、相手は客や―」
グッと拳を握った。
「お客さんなら……、一緒にホテルに行くん?」