運ばれてきたコーヒーが置かれる音に合わせて、遥はさりげなく自分の手帳をバッグの中にひそませた。

「飲んだらすぐ帰るぞ」
「うん」

口をつけると、自分のコーヒーはだいぶ冷めてしまっていた。視線を感じて顔を上げると、カウンターの中にいるさっきのウエイターと目が合う。
思いきり、目を反らされた。

「増刷だとよ」
「…なに?」
「この前出した写真集」
「物好きが多いのね」

今度はトイレに向かう男性客と目が合う。不躾な視線だった。不快を感じたが、諦める。
 遥は他人の、特に男の人の、不審な行動には慣れていた。不快感を煽る視線や、馴れ馴れしい態度。一度すれ違った人間がもう一度戻ってきて顔を覗いてくる、偶然を装って話しかけてくる、そんなことはしょっちゅうあった。
自分はそんなに気持ち悪い顔をしているのだろうか。そういうときは、ひどくつまらない気分になった。

「新しい写真集のオファーも」
「そう」
「同じ出版社と、他三件」
「へえ」

興味がない。
それは彼も承知の上で話すのだ。

「良いよ。わかった」
「あ?」
「撮影は早めがいいな」
「……どういう風の吹き回しだ?」

訝しげに目を細められて、遥はゆっくりとまばたきをした。

「もうすぐ卒業だから。貯金したい」
「…金に困ってんのか?」
「困ってない」
「じゃあ何だ?」

 蘇芳大志は、いわゆる“お金持ち”だった。この県で一番大きな総合病院の跡取り。遥以外には無口で喧嘩っ早いが、成績優秀な一人息子だ。
そんな彼が現在、戸籍上では遥の義兄になっている。
義妹が困ってる、と一言でも漏らせば、何のためらいもなく大金を融通するだろう。彼も、彼の父親も、そういう種類の人間だった。

「老後の蓄え」
「年金間近のババアか、お前は」
「あとでラクしたいの」
「今やれよ。着飾れ、遊べ、食え!」

 ブレンドコーヒーをさっさと飲み干した彼に置いていかれる。追いかけると、すでに会計は済んでしまっていた。
外に出る前に首にぐるぐると彼のマフラーを巻きつけられる。