私の兄――星川友樹は、巷で有名なカフェの支店長として毎日働いている。大学入学と同時に働き始めたその店で、兄は非常に優秀な従業員だったらしい。その成果が認められ、大学卒業と同時に兄は、遂にその店の店長を任されたのだ。
今年の春、高二になったばかりの私――星川夏稀は週二回、学校帰りに兄が働くカフェへと足を運んでいた。兄の仕事の手伝いをするためだ。少し過保護な面がある私の兄が、自分の店でアルバイトをするように、勧めてくれたからである。
今日もある程度働いて、時刻は午後七時半を回った所。仕事が終わると、いつも兄が出してくれる紅茶で一息つく。でも、此処の店自体の閉店は午後八時だ。いくら店内が疎らになるとは言え、店自体はまだ開いているので、兄はまだ働いている時間である。
私はアップルティーを飲みながら、兄の姿を見つめた。支店長、っていうんだから、やっぱり毎日大変なんだろうな。でも、兄が仕事をする姿は大好きだ。自分のやりたいことをやっている兄は、とても生き生きしているから。私はそんな兄に小さく微笑んで、マグカップをソーサーに置いた。
……〜〜♪〜♪
あれ。私は不意に聴こえてきた店内のBGMの曲に、耳を澄ませた。優しくて甘い声。でも、何処か切なげで、人の心を鷲掴みにする様な、そんな声。初めて聴いた。
「お兄ちゃん、これ、誰の歌?」
厨房に居る兄に尋ねる。兄は私の声に気が付くと、一旦作業を中断して私の下に来た。
「なに、何だって?」
「今流れてる曲、これ、誰の歌なの?」
「嗚呼、これ? これはな……俺のバンド仲間が作った曲なんだ。歌ってるのも、そいつ」
そう言って、にっ、と自慢げに笑った兄。まるで自分のことの様に嬉しそうだ。
兄は店長の仕事をしながら、兄の知り合いで音楽が好きな仲間達と組んだバンドで、音楽活動をしている。兄達が作った曲をいくつか聴いたことがあるが、どれも私は大好きだった。
「……素敵な曲、だね……」
切ない。歌詞を聴いて、ただ、そう感じた。好きな人を想う男の子の気持ちが、まるで私自身の気持ちの様に感じる。こんなにも胸が張り裂けそうになる程の想いを、私は抱いたことがない。誰かを好きになると、こんなにも胸が苦しくなるのだろうか。
もう一度、耳を澄ます。この曲を作って歌っている“彼”は、こんな風に誰かに恋をして、こんな風に胸が締め付けられる様な想いをしたことがあるのだろうか。又は今、そんな想いを抱いているのだろうか。
だとしたら私は、貴方に恋をされてみたい。この歌の様に、胸が張り裂けそうになる程、私を想って欲しい。そして、その甘く優しい声で、私に愛を囁くの。
……なんて、私は頭の中で淡い幻想を抱いてみた。ただ、この時、何時か誰かが、この歌みたいな想いを私へ向けてくれたら良いのに、と思ったのは、嘘なんかじゃなかったんだ。カップの底に残った、アップルティーを覗き込む。仄かに香る林檎は、優しい恋の香りがした。
あの日。私は、この“唄”に――“貴方”に、“恋”をしました。
春も過ぎ去り、何時しか辺りには夏の兆しが見え始めていた。校庭の桜も、何時の間にか青々とした葉をつけ、鬱蒼としている。
六月になり、私のクラスでは今日、SHRの時間を使って席替えをすることになった。まだ高二になって新しいクラスになったばかりなのに、もう席替えするんだ、と戸惑ったが、担任の神城芽依子先生の計らいで、私達は新しい席へと移動することになった。
「席はあたしが決めたから。この二ヶ月での皆の様子を見て、ある程度仲の良さそうな所は近くに。あと、男女のバランスを考えて配置しましたー」
まさかとは思うけど、授業中ふざけたりしたらタダじゃ済まさないからね、と芽依子先生の忠告(そして余りにも清々しい笑顔)を受け、皆はこくこく、と首を縦に振る。
芽依子先生は、若くてとても綺麗だ。でも、絶対に怒らせてはいけないタイプだと思う。普段はとても優しいのだけれど。そして授業の分かり易さにも定評がある先生は、美貌も含めて、生徒達にかなりの人気があるのだ。
先生の言う通り、皆それぞれ仲の良い子と席が近い様で、誰も不安を零す人は居なかった。実際私も前の席に、このクラスで一番初めに仲良くなった、藤咲華織ちゃんが居る。
「メイちゃん、さっすが! ね、夏稀!」
華織ちゃんは、ぱちんとウインクをして笑った。彼女はとても明るい性格で、誰とでも仲良くなれる、社交的な子である。此処の教室で初めて会った時も、笑顔で声を掛けてくれたのだ。
「うん、これなら毎日楽しいね!」
「だからね! しかも窓際の後ろの方なんて、超良いポジションじゃん」
教室の席の配置は、縦に六列、横に六列である。私の席は一番窓際の、前から五列目だ。窓際の後ろの方というのは、外の景色が良く見えるから、その分得した気分になる。
私がぼんやりと外の景色を眺めて居る間に、華織ちゃんは他の近くの子達と談話していた。隣の席の女子も、自分の友達と話していて、声は掛けづらい。
(後ろの人は……男子二人、)
私の斜め後ろの男子は、自毛なのか少し茶髪である。垂れた目尻が優しい印象を与えている。そして、私の後ろの人は……。
「お、前の子、夏稀ちゃんじゃねえか!」
「っ……!」
二人の様子を静かに眺めて居たら、急に声を掛けられた。私の視線に気が付いたのだろう。声を掛けてくれたのは、斜め後ろの人の方。人懐っこい笑みを浮かべ、私に手を差し出してくれた。
「俺、壱ノ瀬爽。宜しく、夏稀ちゃん!」
「え、あ……はいっ」
手を握ることに多少の躊躇はあったが、彼の笑顔を見ていると、私の中にあった緊張感は徐々に薄れていった。
そこで私は、先程まで壱ノ瀬君と話していた“彼”に目を向けた。最初に視界に飛び込んで来たのは、綺麗な黒髪。そして綺麗な瞳。でも。
「おい、廉。お前も黙ってないで、自己紹介ぐらいしようよ」
「――分かってるって」
ただ、一言。彼が口を開いただけなのに、どうしてだろう。とくん、と自分の胸が高鳴った。素敵な、声。身体中に行き渡る様な、優しい声。まるで甘ったるい砂糖菓子みたいに、私を夢中にさせる。
「……どうかした?」
ぼけっと彼の顔を見詰めて居たからだろう、彼は私の顔を少し心配そうに覗き込んだ。か、顔が近い……!
「な、何でもないです!」
「そ? 俺の名前は、神城廉。宜しくな」
ふ、と柔らかく笑う、彼。壱ノ瀬君とは違って、大人びた表情。そんな彼に、私は何だか気恥ずかしさを覚える。
「えっと、私は」
「知ってる。星川夏稀だろ?」
「あ……うん、宜しくね、神城君」
私が微笑み返すと、彼は少し考える様な素振りをした。そして、すぐに悪戯笑って見せる。
「廉、って呼べよ、“夏稀”」
「え……っ!」
そんな、今初めて話した人のこと、呼び捨てなんて、そんなのなんだか照れるよ。私はそう思って、首を小さく横に振った。けど、神城君はあの甘い声で、何度も私の名前を呼ぶ。だから私は恥ずかしくて、控え目に彼の名前を呼んだ。
「れ、ん……君?」
「うん、まあそれで良いか。夏稀の照れてる顔、可愛かったよ?」
「っ〜〜!」
「……まーたお前、夏稀ちゃんがいくら可愛いからって、何からかってんだよ」
満足そうに微笑む廉君、そんな廉君を見て、呆れる壱ノ瀬君。そんな二人を見て、私は小さく項垂れた。
それから私達は華織ちゃんも含め、四人で談話することが多くなった。男子二人は音楽が大好きで、バンドも組んでいる話を聞いた。私も華織ちゃんも音楽は大好きだから、四人で話をしていると、良く音楽に関する話になる。
「今度、カラオケ行きたいな」
今日も、廉君のこの一言がきっかけだった。
「カラオケと言えば、やっぱり夏稀でしょ!」
「え、何、夏稀ちゃん、歌上手いの?」
華織ちゃんがそう言ったのに反応して、壱ノ瀬君が私に好奇の目を向ける。
「いやいやいや、私、そんなに上手くなんて……!」
「そうやって謙遜するー。夏稀は本当に上手だよ、あたしが保証する!」
ね、と華織ちゃんは嬉しそうに笑う。確かに、あたしは小さな頃から、兄の歌う歌を一緒に歌ったり、兄が作った歌を歌わされたりして居たため、歌うことだけは得意分野に加わる。
華織ちゃんの言葉を聞いたからか、次は廉君から、興味のありそうな目を向けられた。
「へえ? じゃあ夏稀、好きな曲は何?」
「好きな曲……私の好きな曲は、何処の誰が作ったのかも分からない、でも素敵な恋の歌だよ」
私は皆に、自分には兄が居て、その兄が聴いていた曲は兄のバンド仲間が作ったものなんだ、ということを説明した。華織ちゃんも壱ノ瀬君もロマンチックだね、と感動していた。けれど何故だかその時、廉君だけは、とても難しそうな顔をしていたのだった。
次の日、今日は土曜日なのだが、兄に呼ばれて臨時のバイトが入った。元々来る筈だった人が、体調を崩して休んでいるらしい。今日休みの従業員の方達は、今日は皆都合が悪くて代わりに働く、という訳にはいかない様で、私が代わりに呼ばれたのだ。
私が店に着いたのは、既に開店十分前だった。急いでスタッフルームに入り、身支度をする。メイド服、とまではいかないけれど、黒地の丈が短いドレスに、白いエプロン。どちらにもフリルやレースが沢山使われていて、お世辞無しに可愛い。男の人は、白いカッターシャツに黒いエプロン、所謂タブリエ姿だ。
私は背中の白いリボンをきゅっ、と結び、頭にカチューシャを付けて部屋を出た。
「おはようございます!」
「おー夏稀ちゃん、おはよう」
時刻は七時十三分。開店から十三分しか経っていないのにも関わらず、店内は朝食を此処で済ませようとしているお客様で、いっぱいだ。
私もすぐに注文を取りに行く。新聞を片手に、小難しそうな顔をするサラリーマンや、これからデートなのか、オシャレな格好をしている男女。お客様の層は幅広い。朝は珈琲やサンドイッチの注文が多いため、店内に漂う香りは私自身の食欲もそそられるのだ。
「すみませーん」
「あ、はい!」
声を掛けられ、注文を取りにそのお客様の下へ向かった。茶色い髪に、巻いた髪が良く似合う、綺麗な女性。
「あら……」
「へ?」
不意に、聞き覚えのある声がした。もしかして、と思って目の前のお客様の顔を見る。するとそこには。