「いいか。お前にも教えといてやる。自分以外の誰かのためを思う時は、その先に自分の幸せや名誉、地位、自分にとってプラスになるものが見えてなくちゃいけない。それが見えてないのに人のためを思うのは無駄で不必要なことだ」


ダメだ。


やっぱりあたしはこいつを殺さないと気が済まない。


もう許せる限度を越えている。


涙が頬を伝っていた。


1筋2筋じゃない。


次から次へ、何筋も何筋も。


ナイフを両手で強く握り直して、男に向ける。


男は怯えた様子を見せずに、その場に立ったまま、余裕の笑みを浮かべた。


「おれを殺すか?」


その問いに答えずに、あたしは男の方へと早足で歩いた。


狙いは左胸だった。


あたしがどんなに近付いても、男は逃げる素振りを見せなかった。


それどころか怯えた表情すら見せない。


男の左胸とナイフの距離は数十センチ。



けれどそれ以上、あたしは近付くことができなかった。


きっと人は人を殺せないようにできているんだと思う。


そして、あたしはやっぱり人なんだ。



ナイフを降ろすと、その場に崩れた。


声を押し殺しても、嗚咽が漏れる。