ふと、思い付いた。
だが、俺にそんな事が出来るとは思えない。
でもとりあえずやってみる価値はありそうだ。
どうせ他に考えなんて無い。
俺は男に向けて自分の考えを念じた。
すると、考えていたバカげた事が難なく出来てしまった。
やべぇ。
俺、すげぇかも。
男の身体はフワフワと浮き上がり、通路の天井に思い切り頭をぶつけた。
男はその衝撃で気を失ったみたいだが、命に別状はなさそうだ。
男は気を失ってもまだ宙に浮いたまま。
俺は、男の背景に確実に存在するあるものを消すことに成功したようだ。
重力。
男の足元から天井までの範囲内の重力を消した。
だから男は浮き上がり、ついでに頭を打った。
それはまぁ、計算外だったけど。
男が目を覚まさないのを確認してから、すぐに重力を元に戻した。
男は何にひっかかるわけでもなく、そのままドサリとコンクリートの地面に落下した。
コンクリートでまたどこかを打ったみたいだが、気にしない。
女はその流れを不思議そうに眺めてはいたが、男が失神したのを知ると、すぐに逃げて行った。
とりあえず今回の危機は免れたが、男が目を覚ませばまた何かしでかすかもしれない。
というより、その可能性の方が遥かに高いだろう。
その時はその時で、また俺が何とかすればいいだけの話。
「リュウ、いつの間にそんな事出来るようになったの?」
エマが驚いた様子で尋ねてきた。
「やってみたら出来ただけ」
軽く返す。
「でも、ちょっとやりすぎかもね」
エンが言う。
「反省してます」
本心だ。
どうして俺たちは、出逢う宿命だったのだろうか。
どう足掻いても、いつか離れてしまうとわかっていたのに。
のちに出逢う事になる神様は、本当にどこまでもどこまでも意地悪で気まぐれで、残酷だ。
愛せば愛すほど辛くなるこの恋を、どうして俺たちにさせたんだ。
ルイは俺がいなくなった時、何を思うのだろうか。
やはり、神様を恨むのだろうか。
それとも突然現れた俺を恨むのだろうか。
ルイ。
好きになってゴメンな。
傍を離れなくてゴメン。
俺にはそんな勇気はないんだ…
お前を自ら手離す勇気なんてないんだ…
今も隣で幸せそうな顔で笑っているルイに、そんな事を言える勇気も覚悟もない…
「リュウ、あたしさ、昔死にかけた事あんねん」
ルイは唐突にそんな事を言った。
「両親に殺されかけた」
ルイの表情は決して悲しそうではなかった。
もうすでに吹っ切れているのか、悲しみを封印してしまっているのか。
ルイは自分の過去と、両親が無理心中を図ろうとした事を淡々と話した。
そうされると、俺も淡々と聞くしかなかった。
同情をしてほしくて話したわけじゃない。
一人でよく頑張ったねって褒めてほしくて話したわけじゃない。
ただ、俺に自分の事を知ってほしかったんだと思う。
俺が何も話さない事を、何も話せない事を、ルイはきってわかっていたから。
だからその分、自分の事を少しでも多く知ってほしいと思っていたんだろう。
「ありがとう」
同情でも激励でも称賛でもなく、感謝を述べる事に意味があるとは思えなかった。
だけど、気付けば唇が勝手にそう動いていた。
ルイは顔を上げ、俺の顔を見つめた。
「ルイ、ありがとう」
俺をお前の傍にいさせてくれて。
秘めた思いは口にせず、もう一度そう言った。
ルイの目からはみるみる透明の雫が溢れだした。
抱き締めたい…
でも、俺にはそれが出来ない。
こんなにも想っているのに…
抱き締めるどころか、指先に触れる事すら出来ない。
地面に立つ事は出来ても愛しい人の頬にさえ触れる事が出来ないこの苦しみが、ルナに対する償いの一つならば、俺はただただ耐えるしかない。
ルナはもう、人を好きになる事は出来ない。
人を愛す事が出来ない。
だから俺はこの苦しみに抗う事は出来ないし、してはいけない。
ルイも俺に触れようとしないのは、触れられない事を無意識に感じ取っていたからなのかもしれない。
触れられない事実に対面するよりは、初めから触れようとしなければいい。
現実をみなくて済むから。
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そこまで気付いていても、俺はまだお前から離れようとしない。
誰よりも意気地無しの俺でゴメン…
「あたしは、大丈夫やで」
大丈夫―
両親がいなくても大丈夫―
触れられなくても大丈夫―
たまらない。
伝わってくる想いが、余計に俺の勇気を揺るがせる。
元々微塵の勇気を粉砕させた。
ゴメン…
本当に…
謝罪の理由すら話せない。
俺は…
ルイになんという事をしてしまったんだろう。
宿命という名の罪を、どうすれば償えるのかわからない。