俺は、いてもたってもいられなくなった。
得体の知れない不安がまとわりつく。
それが何なのか、自分でも分からなかった。
……きっと、俺が深く考えすぎているだけ。
昔から、そういうところがあるんだ。俺は。
重い足取りで部屋を出て、階段を下りた。
直接…梨子に尋ねよう。
きっと……いつものように、あっけらかんと言うだろう。
俺は、いつも、心配しすぎなんだよ………。
自分に言い聞かせながら、店へとつながる引き戸の前に立つ。
梨子と、リンダママと、蓮見組の若頭は、
まだ何やら話をしているらしい。
俺は、引き戸に手をかける。
その時、ある一言がはっきりと耳に届いた。
「本当に殺すつもりなのか?」
低く響いた声は、蓮見組の若頭。
俺は思わず、引き戸に触れていた手を引っ込めた。
殺す…って……。
穏やかな話でない事は、明らかだった。
「……もう少しなの。」
それは、梨子の声。
………何が、もう少しなんだよ?
俺は息を潜めて、わずかに開いている引き戸の隙間から中を覗いた。
……さっきと、何も変わらない。
カウンター席に並んで座ったままのリンダママと、蓮見組の若頭。
そして、厨房の中に立つ梨子。
「…今になってね、アタシも不安なのよ。」
リンダママが口を開いた。
それを最後に、沈黙する三人。
静寂を破ったのは、蓮見組の若頭だった。
「……まぁ、よく考えろよ。」
そう呟くと、若頭は梨子に何かを渡した。
グシャグシャになった茶の紙袋。
梨子は受け取ると、その中身を見ている。
「本当に、後悔しない?」
諭すように、リンダママは言った。
梨子は、ほんの一瞬だけ口元を緩めて微笑んだ。
それから、紙袋から何かを取り出しながら、ぽつりと呟いた。
「後悔なんてしないわ。」
その瞬間、俺は呼吸さえ忘れた。
瞬きさえだ。
梨子が紙袋から取り出した物、それは―――……、
それは、小型のピストルだった。
……―――梨子。
一体、何を考えてるんだ?
ピストルを見つめる梨子の眼差しは、酷く冷たかった。
まるで、氷のように―――……。
(俺は、奥田梨子を愛した。
けれど、俺は彼女の事を何も知らない。)
小さな部屋に敷かれた二組の布団。
隣で眠る梨子は、こちらに背を向けて穏やかな寝息をたてる。
風が吹くたびに、ガタガタと鳴る窓ガラス。
そんな些細な音が気になって、眠る事ができない。
……眠れない理由は、それだけじゃない。
……むしろ。
俺は梨子を起こさないように、注意深く起き上がる。
窓から差し込む月明かり。
今夜は満月のようで、いやに明るすぎる。
自分の枕の下から、問題の物を取り出した。
赤い表紙の薄いノート。
表紙に書かれた名前――………『 Shiori Mizusawa 』。
これが、この部屋にあった事を俺は梨子に言わなかった。
……さっき、引き戸の隙間から見た梨子は、俺が知っている梨子ではなかった。
酷く冷たい眼差し、無機質な話し方。
けれど、紛れもなく、奥田梨子なのだ。
俺が知らない梨子の顔。
― 「後悔なんてしないわ。」
ピストルを手にした梨子は、そう言った。
………梨子は、誰かを殺すつもりだ。
そして、リンダママと蓮見組の若頭は、それを知っている。
俺は、水沢の名前が書かれた赤いノートを見つめる。
分からない事が多すぎるんだ。
未だに、頭の中の整理だって出来やしない。
このノートに何かがあるかもしれない。
今は、このノート以外に縋る物がないのだ。
他人の物を勝手に見ていいのか。
だが、他に方法もない。
俺は躊躇いを捨てる。
息を呑み、赤いノートを開いた。
しかし、俺の想像を裏切る結果。
ノートには、何も書かれていなかったのだ。
……いや、正確に言えば書かれていたのかもしれない。
ノートの前半のページ半分程が、全て切り取られていたのだ。
一体、そこに何が記されていたのか?
切り取った人物は、誰なのか?
俺の疑問は、何一つ解決していない。
パラパラとノートを捲っていると、ひらりと何かが落ちた。
……写真?
それも、二枚。
畳の上に落ちた写真を拾う。
そして、
俺は驚愕するのだった。
一枚目の写真は、中学の卒業式。
ダッセぇ俺と、水沢詩織……。
俺の財布にも入っている、あの写真。
二枚目の写真は……。
中学の制服に身を包んだ水沢詩織と、面影が残る幼い奥田梨子。
二人は、笑顔で……。
その写真から伝わるのは、二人の親密さ。
何よりも、写真が撮られたと思われる場所は、この部屋だった。
水沢詩織と奥田梨子……。
どういう事なんだ…………。
俺は、頭を抱える。
何が、どうなっているのか。
その時、俺の中で一つの仮説が浮かび上がる。
もう一度、水沢と梨子が一緒に写っている写真を見つめた。
………まさか…。
俺は、隣で眠る梨子を見つめる。
無防備に、安心しきった表情で眠っている。
……まだ、可能性の段階だ。
俺は、自分に必死に言い聞かせていた。
翌日は、気持ちのいい秋晴れ。
移ろいゆく季節、風は少しずつ冷たくなっていた。
「梨子、デートしよう。」
「デート?」
「あぁ。」
俺は、そう言って笑った。
『スナック・リンダ』を出て、俺たちは手を繋いで海まで歩いた。
「海の匂いだぁ。」
真っ白な砂浜とブルーの海。
梨子は両手を広げて、深呼吸をした。
俺は、といえば、そんな梨子に背を向けて一人歩いた。
頭上の澄んだ空とは対照的な、濁った心を抱えたまま。
梨子が、俺の後を追う。
そうして、後ろから抱きついてきた。
……飛びついてきた、の方が正しいかもしれない。
「さぁくちゃんっ!」
「おっわっ!!」
「おんぶしてください!」
「…………。」
俺は返事の代わりに、梨子を背負う。
俺の肩に絡みつく、梨子の腕。