ってなるはずだった。


 実際は俺が妻に向かって両腕を広げ、駆け寄っていった瞬間。

「あ」

 妻はいつもの顔になって小さく声を出し、鞄の中を探り出した。

 ガッ。

 鈍い音がして、下を向いた妻の頭に俺の顎は見事にヒット。俺はよろめき、吊り橋のロープに寄りかかる。
 眼下に広がるは素晴らしい断崖絶壁の世界。

 俺はまた、ロープを離せなくなった。

「こういうところ来ると、あれやりたくなるよね」
 妻は面白いものを見つけた子供のような表情でそう言いながら拳を突き上げる。

「ふぁいとー!いっぱぁーつ!」

 突き上げた拳にはナイフが握られている。そしてにこやかに俺を視界に捉え、
「本当に切れたらあのCMみたいに私のこと助けてね」そう言ってナイフを吊り橋に当て始めた。

 シャレにならない。


 俺は殆ど無意識に妻を抱き締めた。もちろんさっきの想像とは全く意図の違うものとして。

「それはやめなさい。他の観光客にも迷惑だからやめなさい」
「大丈夫大丈夫。この辺ちょいと切るだけだから」
「てか本当に切れたらファイト一発とか言ってる余裕無いから」

 この二人は、傍から見たら抱きあう新婚カップルではなく自殺者とそれを羽交い絞めで止める人情味あふれる青年に見えるであろう。
「どう?どう?ドキドキする?」鮮やかに羽交い絞めをほどき笑顔の妻。
「冷や汗出るわ」
「ドキドキするね、ドキドキするよねー!」
 妻はにこにこ笑い続けている。

 その笑顔を見ながら現状を乗り切るためにフル回転する頭の片隅で思う。


 ちょっとくらいどきどきさせたい?むしろもう少し落ち着かせてくれ、と。


 この結婚は、長い長い吊り橋の上にいるようなものになるだろう。そんな恐ろしい予感が脳裏に浮かぶ。

 しかしそれを意識の奥にぐっと押しこんで、今日何度目になるか分からない涙目でそれをしっかりと見据えながら俺は一歩踏み出す。


 その長い長い吊り橋の施工主になるであろう、最愛の妻の方に向かって。

《おわり》