「マンボウが好きなの?」水槽に向き合う彼に尋ねる。

「あぁ。ユーモラスな外見も含めて、何だか悠々としてるだろ?」

 マンボウはユーモラスだと言われた事も気にしてないような風情で泳いでいる。聞こえちゃいないから当たり前なんだろうが確かに悠々としている。

「マンボウはね」彼が口を開いた。
「一度に三億個も卵を産むんだよ」

「三億」私はびっくりして彼の顔を見る。

「そう。すごいよね。ちなみに人間も一度の射精で放出される精子は三億なんだよ。でもそこから卵子に辿り着ける精子が一つである事を考えると、もう孵化を待つだけの自分の遺伝子を持ったものが三億も居るってのは圧巻だよね」

 そう言って彼は水槽に視線を戻した。私も彼に倣う。

「何でそんなにたくさんの卵を産むかというとね」
 彼はマンボウから目を離すことなく話を続ける。私は話す彼の横顔を見つめる。

「孵化する前に他の魚の餌になってしまうことが多いからなんだ。それにね」
 水槽にそっと触れる彼の左手には指輪がはめられている。不誠実、という言葉が頭に浮かぶ。

「水族館で飼育するのも難しい。餌を食べるのが下手だし、泳ぐのも下手だから水槽の壁にぶつかって死んでしまうことがあるんだよ」
 彼がマンボウから目を離すことはない。もしかしたら私が居なくなっても気付かないかもしれない。

「じゃあこの水族館はすごいのね。来た甲斐があったわ」

 私が口を開くと彼はたった今その存在に気付いたような顔をこちらに向け、そうだよ、とにこやかに微笑んだ。

「でも、もうお泊まり旅行はできないね。そんなに何度も女房に嘘はつけないから」

 私が答えないでいると、

「今度は二年の記念に来ようね」と言った。


 その言葉を聞いて、この人も壁にぶつかって死ねばいいのにと思った。