「直します」
 そう言って君の隣に同じようにしゃがんだとき、私の嗅覚は、甘く心地好い香りを感じました。
 その香りは、香水等で付けられた押し付けがましいものとは違い、毎日の生活の中で少しずつ構築された、正に君と言う人間の香りでした。店で接するカウンター越しの距離では気付くことのなかった、本当に仄かなものだったのです。
 また私は右肩に、接近した君の左肩から伝わる、微かな熱を感じた気がしました。
 その香りと熱は私の心身を包み、まるでお伽話に出て来る媚薬のように私の鼓動を高鳴らせ、作業する私の手を震えさせました。
   
 余り機械に詳しくはない私でも、自転車のチェーンを直すこと位はできました。震えがちな手であれ、一分と掛からずチェーンを元通りはめ込みました。
 君は感心したように小さな声を発し、音の鳴らない程の小刻みな拍手をくれました。そして勢い良く立ち上がると、まだしゃがんだままの私に向かって、深く丁寧なお辞儀をするのでした。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
 君の大きな目に見つめられると、媚薬の効果は飛躍的に高まり、私の鼓動は更に加速し、顔に熱を帯びて来るのが分かりました。
 私は立ち上がり、満足に視線を合わせられないままに謙遜の言葉を述べると、早々にその場を立ち去ろうと考えました。しかし、君に背を向け歩き出そうとしたとき、君の発した言葉を聞き、私は再び足を止めたのです。
「あのっ、昨日はすみませんでした」
 私が振り返ると、君は更に続けました。
「でも……改めてお誘いさせて下さい。今は仕事中じゃないし、今度は今日のお礼って言う理由もありますから。いいですよねっ?」
 君は少し恥ずかしそうに頬を赤らめていましたが、自分では確認しようがないものの、私のそれは君の比ではなかったことでしょう。
 私は君の誘いに応じました。媚薬に侵された私の思考は、疑心と言う部分が完全に麻痺しており、前日に感じた困惑や警戒と言った感情は、脳裏を掠めることすらありませんでした。
 私も君も出掛けの途中でしたから、また、お互いの羞恥心も手伝い、極簡単な短いやり取りのなかで約束を交わしました。
「今晩七時に、駅の改札前で」
 最後にもう一度確認すると、私は徒歩で、君は機能を取り戻した自転車で、夜にまた落ち合う駅を、それぞれ目指すのでした。