例年より幾らか短い梅雨が明けた、六月の下旬のことでした。日に日に輝きを増す初夏の太陽は、その年の夏も暑くなることを約束するようでした。
 外の気温とは対照的に空調に因って快適に冷やされた店内の空気の中で、君は私に思いがけない言葉を掛けてくれたのでした。
「もし良ければ今度食事にでも行きませんか?」
 偶々一時的に私達二人限りになったレジの前で、君は酷く早口でそう言いました。
 私は女性からそのような誘いを頂いたこと等、勿論ありませんでしたから余りの驚きに目を見開き、思わず身を引いてしまったことを憶えています。些かの高揚感は感じていましたが、同時に困惑と警戒の念も生まれていました。また、勤務中に客とそのような約束をしてはいけない等と妙な倫理感まで働いてしまい、君の誘いを断ってしまったのです。
「仕事中ですから、困ります。そんな理由もないですから」
 なぜ私はいつも、こんなぶっきら棒な台詞しか吐けないのでしょうか。生まれ持った性質なのか、或いは他人と接することへの経験不足のせいか、残念ながら私は交遊能力が明らかに欠如した人間でした。
「そうですよね。急にごめんなさい」
 君はバツが悪そうに引きつった微笑を見せ、申し訳なさそうに詫びました。そして、店のロゴが入った青いナイロン袋に纏めた数枚のCDを携え、店を後にしました。
    
 その後私の心中は、勤めが終わり帰宅し、風呂に入り翌日の準備を済ませ、寝床に入り眠りに就くまで、更には翌日の朝になっても、君から誘われたことへの喜悦と、それを固辞したことへの後悔に翻弄されていました。学校へ向かうため駅への道を歩いている間も、そのことばかりを考えていたのです。
 道中、私の地元では有名な大きな商店街に差し掛かろうとしたとき、道端に停めた自転車の前でしゃがみ込み、ペダルを手でカラカラと廻しながら、何やら途方に暮れている女性の姿がありました。
 折り曲げた膝の裏に黒い薄手のロングスカートを器用に挟み、低くなったその女性の背中に私は声を掛けました。
「チェーンが外れてしまって……」
 そう言いながら振り返った女性の顔は、前日の晩から私の脳裏に何度も浮かんだ顔でした。
 私も君も同じようにポカンと縦に口を広げ、驚きを隠しませんでした。直後に恥ずかしそうにはにかんだ君に釣られ、私の顔も自然と綻びました。