カー……ン……




遠くで、教会の鐘が鳴っていた。
耳鳴りと勘違いするほど遠くて、けれど気づいてしまったら耳を傾けずにはいられない音だった。
一定間隔で物悲しく鳴る鐘は、追悼のためだ。

涙雨が降り続く、薄暗い土曜日の午前だった。

「行かなくていいの?」
部屋の入口に佇んだまま、私は訊いた。
声は、消えるように小さくて、カラカラに乾いてかすれていた。
私の声は、まるで空間に吸い取られるように、すぐに消えて、代わりに重苦しい静寂が部屋を支配した。
部屋の中央には、黒いグランドピアノが置かれている。

カーン……

また、遠くで鐘が鳴る。

鐘の音に重ねるように、白鍵が鳴った。
静かに、そして重く。
両者は完璧に重なり合い、ひとつの音だった。
絶対音感を持つ彬は、ピアノの影で、まるで深海魚のように身を潜めていた。

カーン……
ポーン……

深海のソナーのようだ。
私は薄暗い部屋の入口で、めまいを感じていた。

停滞した時間。
澱んだ感情。
明かりのない部屋。

完璧に重なり合っていた二つの音が、長く余韻を残したあと、微かにズレた。
彬が眉をしかめて白鍵から指を浮かせた。

「………狂ってる」

彬が、ぽつりと囁いた。
私は胸が高鳴るのを気づかないふりをして、彼に話しかける。
途切れないように。
彼を逃がさないように。

「狂ってないよ、普通だよ」
「オレの話じゃない、ピアノ」
「え……?」
「調律しないと。音が歪んでる」

彬がピアノの前の椅子から立ち上がりながら振り返った。
私と目が合うと、自嘲するような淋しい笑みを浮かべた。
「オレなら大丈夫だから、繭子は行ってこいよ」

遠くで鐘が鳴る。

あの鐘は、追悼の音だ。

彬が愛した、
私が妬んだ、
ピアノの先生。

私は彬を残して、彼の家を出た。
外も薄暗く、憂鬱な土曜日だった。
灰色の世界に透明なビニール傘を開く。
それはまるで、彬と私を隔てる、見えないバリアのようだ。

(世界は冷たい)
(だから私は守られたい)

私は教会へ向けて、ひとりで歩きだした。