§


 8:35。

 いよいよ、空兎の一学期の目標が破られようとする中、この日。

 出張明けで休暇の甲斐浜 紗恵美は、居間で朝食後のお茶をのんびりと啜りながらトースターの食パンが焼きあがる台所の仙太を微笑ましく眺めていた。

 テレビの朝のニュースでは「日本で新薬研究中のルミネ=クロスネンボ博士が急遽イタリアへ帰国」という、自分の職業に関する報道が流れているにも関らず、紗恵美の興味は我が息子の僅かながらにイライラした様子の方に向けられていた。


 チン!


 という、食パンが焼きあがる音が鳴ると同時に、二階から元気に階段を駆け下りる音が鳴り響く。

「せっちん、おっ待ったせーーーっ!!」

 あっちこっちに絆創膏だらけだが今日も最高の笑顔で現れた空兎のその口に、仙太は焼きあがったばかりの食パンを放り込んだ。

「むぐっ!」

「『むぐっ』じゃない。すぐに行かないと本気で遅刻だ空兎。無遅刻無欠席が君の目標なんだろう? じゃ、行ってくるね、母さん」

「せ、せめてマーガリンかジャムを……。できるならダブルトッピングを所望!」

「塗ってる暇なし!」

 きっぱりと切り捨てた仙太が空兎の手を引っ張っていこうとすると、観念したのか空兎は一瞬、しょんぼりしながらも紗恵美には普段の明るい挨拶を投げ掛ける。

「んじゃ、行ってくるね! 叔母さん」

「いってらっしゃい、仙ちゃん、空兎ちゃん」

 ドタバタと玄関から出て行く二人を紗恵美は、微笑ましく送り出しながらふと先程の仙太の顔を思い出す。

「空兎ちゃんが来てから、仙ちゃん、少し表情が豊かになったかもしれないわね」

 妙に落ち着き過ぎたところがあったせいか、あんな風にイライラした顔を表立って見せたことなんてなかった気がする。

 自分が忙し過ぎてただ見逃しているだけなのかもしれないが、母親としてはそれが少し嬉しかった。