僕は桜の咲く季節に生まれたけれど、幼な過ぎて、桜の花の色も匂いも、ちっとも覚えていなかった。


「桜の花、見たかったな」

 僕は固いツボミを抱いた桜の木の影から出て、家の門を出た。



 少し振り向いてみる。

 でも、誰も僕に気が付かない。




 いつもの散歩道。

 家から真っ直ぐ行ったところにある、穏やかに流れる小川。

 そこに架かる小さな橋を渡ったところの広場が、僕たちの社交場になっていた。



 僕は今日、その橋を渡らずに小川の土手をひたすら南へと向かって歩いた。


 歩くペースは徐々に上がり、いつしか僕は、全速力で走っていた。



 さよなら

 さよなら

 さよなら、ご主人。


 新しい首輪をありがとう、ご主人の奥さん。



 僕は寂しい気持ちで一杯だった。



 そして、とても悔しかった。



 母さん……。