龍司は何を考えてるのかいるのか、全くわからない。
早く眠ってしまえばいいのに。
この、異様な空気は、
とてつもなく長く感じた。
苦痛以外のなにものでもない。
早く逃げだすことばかり考える。
龍司が、立ち上がり、部屋を出ていった。
別の部屋で、バタン!と音がする。
そぉっと覗いてみる。
冷蔵庫から飲み物か何かを探しているようだ。
ここから死角になっていて、ちょうど姿が見えない。
今、逃げるしかない!!
あたしは今いる部屋のドアを、静かに静かに開ける。
どうか見つかりませんように…
龍司が歩いてくる音がする。
ヤバい!!!
靴が見当たらなかったが、そんなことに構っていられず、裸足で一目散に飛び出した。
だれか助けて!!
あたしは走った。
とにかくできるだけ遠くに…
誰か…誰か!!
助けて!!
どうしてこんな時に限って誰もいないの!!
後ろから車の音がする。
龍司の車だ。
焦る気持ちと裏腹に、
足がもつれる。
あっというまに追い付かれ、あっさり龍司につかまってしまった。
―――ゴッ!!
頬に鈍い痛みが走る。
……痛い!!
一瞬何が起こったのかわからなくなり、すぐに気付く。
あたし、龍司にグーで殴られたんだ。
『あんま、なめたマネすんなよ?』
あたしはそのまま、連れ戻された。
この部屋は暗くて冷たい。
ここにいると、
時間の感覚が全くわからなかった。
今が朝なのか、夜なのか
今日が何曜日なのかさえも…
殺風景な部屋。
テレビも時計もない。
窓は遮光カーテンで完全にふさがれ、光は全く入らない。
龍司に殴られた頬が、
じんじん痛んだ。
部屋に連れ戻されたあと、あたしは恐怖のあまり震えてた。
『なぁ…』
龍司は、あたしを抱き締めた。
頬にそっと触れる。
『ごめんな…?痛かっただろ…。お前が逃げたりするからだよ?もうしないから…』
さっきとはまるで別人みたいに、優しくあたしを見つめて抱き締めたんだ。
それからどのくらいたってるんだろう。
このまま誰にも気付かれないのかな…
帰りたいよ…
龍司は、ときどき
あたしを置いて出かけていく。
逃げようという気力より、
とにかくおなかがすいて、倒れそう…
龍司が出かけている間も、
あたしが一人になることはなかった。
見張り役?
龍司がでかけるときは必ず誰かやってくる。
その日やってきたのは、
龍司と初めて出会った日、真由美とあたしに声をかけてきた男だった。
龍司が出ていくと、
男はぽつりと言った。
『…覚えてる?…』
『うん…』
男は哀れみを含んだ目で、悲しくあたしを見つめた。
もしかしたら、
もしかしたら、こいつなら
あたしを解放してくれるかもしれない。
『ねぇ、あたし帰りたい。どうにかして?』
『……そうしてあげたいけど、俺には無理だよ…。
龍司さんには逆らえないんだ。ほんとにごめん…』
『どうして?あたし、どうしたらいいの?』
『……ごめん』
車の音がする。
龍司はすぐに帰ってきた。
あたしたちはそのまま、黙り込んだ。
龍司はあたしたちの様子を見ると、何かを察したかのような顔で言った。
『おまえ、俺がいない間に、手出してないだろうな?』
『龍司さん!そんなことするはずないですよ』
そのまま、二人は外に出ていき、しばらくすると龍司が部屋に戻ってきた。
『お前、俺のこと怖い?』
『…ううん。』
あたしは首を横にふった。
そう言わないとまた殴られるんじゃないかと思ったから。
『お前、名前なんてゆーの?』
『……結城…』
あたしはそのとき、
龍司に初めて自分の名前を口にした。
龍司は、
あたしを連れて外に出るようになった。
外に出れば必ず龍司の知り合いがいる。
見るからにたちの悪そうないかつい男も、
龍司に会うと、立ち上がり、『龍司さん!』
と頭をさげる。
龍司はここらへんでは、相当顔が広いらしかった。
あたしは、龍司と一緒にいるうちに、いつのまにか、龍司の彼女になってるようだった。
龍司も『俺の女』
なんて言ってる。
龍司の女というだけで、
みんながあたしにまで頭をさげる。
なんで、こんなことになってるんだろう。
龍司の家に連れてこられてから、
すでに2ヶ月がたとうとしていた。
ある日、龍司の家に帰ると、部屋に一人のおばあさんがいた。
『勝手に部屋に入ってんなよ』
『あ…ごめんね…すぐにでてくから…』
おばあさんは逃げるように部屋を出ていく。
『あの人、誰?』
『俺の母ちゃん。』
お母さん??
どうみても80歳くらいだ。
龍司以外に、ここに人が住んでいたことさえ
そのときまで全然気付かなかった。
あたしはそのころから龍司の前では、
逃げようとする態度は見せなくなっていた。
言葉でも示した。
油断させて、隙があれば逃げ出そうという考えがあってのことだった。
そうしていれば、龍司は
優しかったからだ。
『どこにも行かないよ』
と言うと、
龍司は安心したかのようにあたしを抱き締めて眠るようになっていった。
龍司が深く眠ったら、
一度あのおばあさんと話をしてみよう。
『…起きてる?』
龍司の顔を覗き込む。
ここ最近、ゆっくり眠ったことがなかったから、
完全に眠っているようだ。
あたしの肩に、しっかりと回されている龍司の腕を、そっとはずす。
あたしは、部屋を抜け出した。
仏壇があり、ひんやりとした空間だ。
『すみません…だれかいますか』
大きな声を出さないように小声で問い掛ける。
ギシギシと床がきしむ音がして、おばあさんが顔を覗かせた。
『龍司は…?』
『今、部屋で眠っています。』
あたしは、今までのいきさつを話した。
おばあさんは、
『…ごめんなさいね…』
と言うと、ぽつりぽつりと話し始めた。
『あなたにこんなことを言っても、どうしようもないだろうけど…
龍司はかわいそうな子なの』
龍司の本当の母親は、
おばあさんの娘で、
男にだらしなく、妊娠がわかったとき、誰の子供かわからないまま、一人で産んだらしい。
龍司が二歳になったころ、新しい男ができると、
龍司を残して出ていったこと。
『いつも、じっと我慢していたけど、一度だけ、お母さんに逢いたいって泣いたことがあったよ。
あんなに小さいのに我慢して…今でも忘れない。
でもそれが一度きりだった
龍司の母親をそんなふうに育ててしまったのは、私の責任。
龍司は何も悪くないのに…
親の勝手で、悲しい思いをしたんだ…』
おばあさんは、泣いていた。
成長するにしたがって、手がつけられないほど荒れはじめた龍司。
『もう私も年だし、
どうすることもできない…
ただ、あなたといて、
龍司は最近、落ち着いてきた気がするよ。』
おばあさんは申し訳なさそうに、頭を下げると、
『ごめんなさいね…』ともう一度、言った。
あたしは龍司の部屋に戻り、
龍司の寝顔を今までとは明らかに違う気持ちで見つめていた。
寂しかったんだよね…?
形は違うかも知れない。
でもあたしもそうだよ。。
視線に気付いてか、龍司がぼんやりと目を開けた。
あたしの手をぎゅっと握ると、
『どこにも行くなよ…』
つぶやくようにそう言った。
まさか愛じゃないと思う。
同情?
あんな始まりなのに。
でもそのとき、あたしはいつも強気な龍司の弱さを見た気がした。
そして、確かに、そのときの龍司を愛おしく思ったんだ…
もしかして龍司のこと…
どれだけ頭では否定しても、
あたしは龍司を好きになりはじめてた…。
始まりは愛なんかじゃなかった。
でもそれでも…。
龍司は誰といても、
何をしてても、
あまり笑わない人だった。
龍司の心の闇を、
溶かしてあげたい。
そう思い始めてた。
あたしが、体だけじゃなく、心ごと龍司を受け入れた日、
『…結城、愛してる』
はっきりと龍司はそう言った。
それが、初めて龍司があたしのことを、名前で呼んだ日だった。