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彼は、私のアパートから車で30分ほどの場所に住んでいた。
部屋の中は片づいていて、モノトーンで統一された家具が印象的だった。
駐車場からここまで、自然と私たちは手をつないでいた。
二宮くんとは近くにいることも苦痛だったのに、だ。
「和葉、座りな」
ソファに促され、私はその端に腰をかける。
彼は私の正面にしゃがみこみ、私の手を優しくさすり続けている。
「…落ち着いたか?」
「うん」
「和葉、…いいのか」
「え?」
私は、なにについて聞かれているのかわからず聞き返した。
すると、彼は苦笑いを浮かべて続けた。
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「俺んちに泊まるの」
あ、と私は言われている意味に気づく。
小早川千秋と一晩一緒に過ごす、って。
―――かあぁぁぁぁ…
私は顔がみるみる熱くなるのを感じた。
なんでここに来ちゃったんだろう。
今更考えても遅いし、何より一人ではいたくない。
絵美は決まって週末になると彼氏の家に泊まりに行くから頼れない。
私が悩んでいるのに気づいたのか、彼は私の頬に手を当てこう言った。
「なにもしないから。くつろぎなさい」
頬に当てられている手から、私がどれだけ身体中を赤らめているかばれてしまいそうだ。
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もうだめだ。
その大きな手に。
低い声に、優しい眼差しに。
―――自覚しなければならないときが来たみたい。
この人に初めて会ったときから感じていた胸の痛みは、傷つけられたときのそれとは違ったみたいだった。
締め付けられるような、心地いいような痛み。
もう恋はしない
―――ううん。
私、また恋をした。
目の前のあなたに、恋をした。
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「…先生、手」
頬に触れっぱなしの彼の手をどけてもらおうとすると、わざと両手で私の顔を挟み込むようにもう片方を添えてきた。
「ちゃんと俺の名前呼んでくれたら考えてやるよ」
意地悪そうに笑い、そう言う彼に私は戸惑った。
ますます顔が熱くなってくる。
「…わかりました!名前で呼べばいいんですね?」
私は息を吸い、意を決して言葉を放つ。
たかが名前を呼ぶだけなのにこんなに緊張するなんて。
「……千秋さん」
俯きながら、そう呟いてみた。
なのに頬に添えられた手はどけてくれない。
私は、恥ずかしさのあまり上目遣いで彼を睨んだ。
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――彼の喉仏が上下する。
苦しそうな表情で私を見つめ、こう言うのだ。
「…今ここで、これ以上近づいたら和葉に嫌われるよな」
……え?
「その顔、反則だろう…」
そう呟くとほんの少し手に力を加えたが、すぐに力無く両手を遠ざけていった。
――キスされるのかと思った。
確かに今でも男の人は苦手だよ。
怖くてたまらないよ。
でも、私、千秋さんだから手がつなげた。
きっとあなただから好きになった。
千秋さんなら、怖くない。
………今言っても、全部信じてもらえないだろうけど。
出かかった言葉を飲み込み、夜は更けていった。
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―――
「えーーーーーっ!」
月曜の午後は授業がないので、絵美に週末の出来事を話した。
そりゃ驚くよね。
私だっていまいちフワフワしてて、信じられないんだから。
「しかし、結果的に二宮のおかげだったりしてね。なかったらそんな急接近してないし、和葉が自分の気持ちに気づいてなかった」
「そう…だね」
絵美は、苦笑いを浮かべる私を見て話し続ける。
「二宮の件は私からもきつく言っておくから。でもさ、和葉よかったね。好きな人、できて」
優しく笑いながらそう言ってくれる絵美。
「うん。…また恋するなんて思ってもなかったけど」
私も笑って答えた。
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でも、不安なんだ。
私の過去をすべて聞いて、そんな私を恋愛対象として見てくれるのか。
叶わない恋なんじゃないかって。
できればこのまま、穏やかに時間が流れてほしかった。
―――波乱の嵐は、すぐそこまで来ていたのに。
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見たくない光景を見せつけられたのは、金曜日だった。
授業後、絵美と二人で買い物を楽しんだ。
その後休憩がてら入ったカフェで、千秋さんと…きれいな女の人が一緒にいるのを見たからだ。
「和葉…あれ、先生じゃない?」
――本当だ。
女の人の顔はこちらからは見えないが、難しそうな顔をして話をしている。
「…だね」
誰?
「ヤバッ、見つかる!」
二人が立ち上がった姿を見た私たちは、とっさに身を隠そうとした。
しかし、しっかり見つかってしまったようだ。
「――和葉!」
慌てたような声色で私を呼ぶ千秋さん。
私は顔を背けた。
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すると、千秋さんの前を歩いていた女の人は不機嫌そうな顔でこちらに向かってきた。
「ちょっと千秋!…なに、このガキんちょが次の相手な訳?」
背の高い、ちょっと派手目な美人さん。
私の顔をまじまじと見て、鼻で笑う。
「あなた、千秋は返してちょうだいね?」
返して…?
「遥!この子は関係ない」
お互いに呼び捨てで呼び合っているようだ。
……よっぽど親しい人なんだろう。
元、いや、今もつきあっている彼女なのかもしれない。
胸が張り裂けそうに痛い。
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