その後、午後の授業を終えた私たちは、学生課の掲示板を見に行った。
大学からのすべての連絡は掲示板に掲示されるのだ。
ま、ほとんどなにもないのだけれども。
……と思っていたのだか。
「和葉、呼び出しあるよ!」
「え?」
私は絵美が指さした掲示物を見た。
“経済学部経営学科 島貫和葉
この掲示を見次第小早川研究室まで”
「小早川って…誰?」
私は絵美に尋ねてみたが、絵美は首を横に振る。
―――私は絵美と別れて、研究室を目指した。
.
―――薄暗い廊下を歩く。
ここは研究室のドアが並ぶ経済学部棟。
その奥に“小早川研究室”と書かれたプレートを発見した。
まだ新しいそれを眺め、私は意を決してノックをした。
――コンコン
「経済学部の島貫和葉です」
そう声をかけ、返事を待っていると背後から声がした。
「よう、和葉ちゃん。顔色よくなったな」
低く、響く声。
振り返ると、午前中に会ったあの男の人が立っていた。
「早かったな」
そう言うと、研究室の鍵を開けてドアを開けた。
「おいで。お茶くらい出すよ?」
.
私は混乱していた。
確かに学生らしくない雰囲気ではあったけど、まさかまさか……
「あなた、大学教授なんですか?」
彼は入り口で突っ立っている私に向かってにこりと笑う。
「今月から着任した小早川千秋準教授です。来週からの『マーケティング論』は俺が授業するから、よろしくね?」
そう言い終わる頃には、彼は私のすぐそばにいた。
「和葉ちゃん、俺の好みなんだよね。フリーなら付き合ってよ」
「なっ――…」
反論しようとした瞬間、私の後頭部には彼の手が回っていた。
――そしてそのまま、唇に何かがぶつかった。
一瞬だけ触れ、わざと鳴らしたようなリップ音をたてて離れていく。
.
なんで?
なんでまたこんなことされてるの?
私がきれいじゃないから?
汚されてしまったから?
―――パァンっ!
私は思いっきり彼の頬を叩き、その腕から離れた。
「最低!」
そう叫ぶと、私はそのまま研究室を後にした。
近くのトイレに駆け込み、電気もつけずにその場にしゃがみこんだ。
心にナイフが増えた。
―――あと何本刺せば気が済むの?
…ファーストキスだったのに。
.
―――あれから三日がたった。
絵美にも言えなかった。
だって、あんなことがあった翌日から「小早川先生」が一気に女子の間で人気になったから。
絵美だって彼氏いるくせに彼の姿を見る度に浮かれてる。
顔も見たくない。
…のに、「小早川先生」の授業は必修だから逃げられない。
なんでまたこんな目に遭わなきゃならないの?
―――――
―――
憂鬱ながらも、マーケティング論の授業の時間になってしまった。
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教室内はざわざわと女の子たちが騒いでいる。
…あたりを見渡すと、間違いなく別学部の子たちが混じってるのが目に付いた。
「和葉〜、いよいよ小早川先生タイムなんだけど!」
あぁ。
ここにも一人浮かれてる子がいたわ。
「…そう」
「ま、あんなタイプ和葉は苦手そうだしね」
わかってるならそっとしててよ!
そうしていると、いよいよ入室したのかざわめきが一層増した。
「来た来た!かっこいい〜」
絵美がそう騒ぐ中、私はずっと下を向き俯いていた。
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「えー、じゃあテキストの……」
淡々と授業が進んでいき、先生目当ての女子はいつの間にかいなくなっていた。
最低限、板書するときだけ顔を上げなければならないが、そうすると必ず先生と目が合う。
そのたびに私は急いで目線をそらし、窓の外を見たり下を向いたりしていた。
そうするたびに心臓が身体の中から出てきそうなくらい高鳴る。
顔も熱くて、背中は汗で湿ってきた。
刺すように鋭い視線が私に突き刺さる。
苦しいよ。
苦しませないでよ。
―――結局、私は授業中ずっとその視線に刺され続けていた。
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ぐったり…。
授業が終わり、私は机に突っ伏して身体を休めた。
絵美はそんな私を見て笑いながら話し出す。
「どうしたー?小早川先生に見つめられっぱなしで疲れたの?」
その一言に私は飛び起き、絵美の顔を見た。
な、なんで?
なんでわかっちゃったの?
「いやねー、最初は私を見てるのかなって思ってたけど、なんか…気づいちゃったのよ」
絵美はそうさらりと言い、今度は真剣な表情で話し出す。
「和葉、やっぱ男は嫌い?」
私は、その口調に戸惑う。
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「嫌いだよ。嫌いだし…私は、もう恋なんかしたくないから」
言葉にするとすごく悲しく響いた。
「だからさ、絵美が気にする必要なんてないから!私はこれでいいんだし。先生のことだってきっと偶然だよ」
私は笑顔を作り、そう絵美に言った。
そう。
偶然というより、気まぐれだと思う。
女の子たちがキャーキャー言ってるのに私は俯いてばっかりだったから、気になっただけだよ。
あんなふうにずっとやられたら、私が先に参ってしまう。
こうやって考えているだけでも、心のナイフは私にぐりぐりと深く刺さってくるんだから。
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