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気付けば午前十時頃。
自分の部屋からリビングへと移動していたが、絵美はどうやってリビングに降りてきたのか記憶が途切れていてよく覚えていない。
そして羽根が生えたために服が破けたことも、薄手のタオルが体に掛けられていることにも気付いていなかった。
「絵美ちゃん、十八歳になったのね…」
絵美に表情はなかった。
「少し落ち着いたかしら?」
絵美の背中を隣でずっと撫でていた祖母は食卓テーブルを支えにして立ち上がる。椅子に座る絵美の頭を軽くなでると、キッチンへ向かいお茶を煎れ始めた。
「あたし――天使なの?」
身動き一つせずに絵美は言う。
「天使って、不幸の象徴なんでしょ?天使になると家族が居なくなるって、存在しちゃいけないって!」
祖母の持ってきた二つの湯飲みが静かに置かれる。
「そうね……。みんなそうやって長い寿命を生きてきたわ」
祖母は手の中で湯飲みを回した。
「天使にもよるけど、子供を作ることを許されず、一人の人を愛することも許されず、ただ生きて死を迎える。
皆が知っていることだから、近づいてくる人も居ない。
沈黙の天使が現れるまでは、誰も逆らうことが出来ない運命」
なんて残酷な話だろう、と祖母の脳裏によぎる。が、しかし何も出来ない。
何もしてあげられない。
世の中では既に知られていることだが、世界中に1億程の天使が存在する。
そしてそのすべての天使に哀しい運命が用意されているのだ。すべての天使共通の運命、それは異性と結ばれることが無いということ。
すべて女性ということ。
そして、自分以外の家族がすぐに死を迎えるということ。
中には天使とすれ違った時に違和感を感じ、しばらくして娘が天使になったという例もあったようだ。
あまりのショックで自殺を計ろうとするものも居たが、その回復能力の早さに誰もが長い寿命以外で死ぬことがなかった。
そもそもの始まりはきらびやかに着飾る天使を羨んだ悪魔が地上に一人の天使を連れてきて殺してしまったと言うことだが、何千年も昔の話で定かではない。
「……沈黙の天使って、いつ生まれるの?」
湯気の無くなりかけた湯飲みを眺めながら絵美が言う。
即答する祖母。
「今日産まれたわ。あなたよ」
今まで身動き一つしなかった絵美の体が少しだけ揺れた。
祖母はそれ以外何もしゃべらずにゆっくりと立ち上がり寝室へと向かった。
「ママ……」
リビングに一人になった絵美は不安に押し潰されそうになりながら、母親を思い浮かべる。
亡きがらは既に寝室から運び出されていた。今日の日を知っていた祖母と母親が数日前より準備をしていたのだ。
そうなる運命だと決まっていたことが祖母にも母親にも辛いことであったのは間違いないだろう。
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ふと時計を見ると十一時を過ぎていた。祖母は寝室へ行ったまま戻ってこない。すでに冷め切ったお茶を一口、口に含む。
「おばあちゃん、どこ?」
嫌な予感がする。同じ姿勢で座っていたからか、痺れかけた足を庇いながら祖母の寝室へと移動する。
ドアは半分程開いていた。ゆっくりと押し開けると、ベッドの上に何枚かの衣服が散らばっている。
『あたし、服が…』
自分の着ていたものが破れているのに気付きベッドの上に手を伸ばそうとした時、その裏側からはみ出す足を見つけた。
『ドクンッ!』
心臓が波打つ。ゆっくりと近付き触れたその足は祖母のものだった。
フローリングに無造作に倒れ込むその顔は苦痛に満ちている。
「お、おばあちゃん?おばあちゃん?!」
何度も揺するが反応がない。冷たくなった足先。呼吸のない体。
「いや、いやぁ……いやあぁぁぁ!」
ぽたぽたと音を立てて大粒の涙が床へ落ちる。
「ママ…おばあちゃん…ママ…おばあちゃん…」
いつしか絵美は気を失っていた。
うっすらと開けた絵美の視界には、古ぼけた天井が見える。
コンクリートにも見える、シンプルな天井。
ゆっくりと見回すと、大きな窓。
周りから遮断されているように掛かるクリーム色のカーテン。
そして頑丈なベッドに横たわる自分。
病院だった。
ゆっくりと上半身を起こして、今一度周りを見る。
近くにあったテーブルの上には小さな花瓶にかわいらしい花が活けられている。
いまいち自分の状況が把握できない絵美はゆっくりと記憶を辿る。
誕生日。
祖母。
母。
羽根……。
「い、嫌、嫌…」
自分の意思で動く羽根。
零れる羽。
「いやぁぁぁ!」
頭を抱える腕。
後退りをする体。
その足で布団を蹴落とし、ベッドを勢いよく揺らし、近くにあった花瓶が落ちる。
壁にぶつかる背中は、落ち着くばかりか、より一層撹乱させる。
叫び声を聞いて看護師が走り込んで来るまでは、そう時間は掛からなかった。
医師が到着したときには見るも無残な状況で、ベッドに設置してあるライトはあらぬ方向を向き、掛け布団はいくつものしわを作り床に落ちている。
シーツもはがされ、普段は見ることのない敷布団が八割ほど姿を見せていた。
個室だったため同室の住人に迷惑をかけることは無かったが、その叫び声は廊下中に響き渡っていた。
男性医師が絵美を抱き抱え押さえ込もうとするが、癇癪を起こした子供のように体全体を大きく振り回して拒絶される。
幾度となく抱き抱え、拒絶され、数十分が経とうとしていた頃、体力が無くなったのか、しゃくり上げながらも力無く医師にもたれる絵美。
その間廊下で待っていたのか、一人の女性が病室へと入って来た。
「絵美ちゃん、久しぶりね」
ゆっくりと顔を上げて見たその人も、背丈ほどの羽根を背負っていた。
小さい頃に見たことのある天使。記憶も曖昧だが、それよりも、なにもかもがどうでもよかった。
落ち着いたら一緒に帰りましょうと、話し掛ける彼女に対して何の感情も沸かない。
はだけたタオルの下には、誕生日の朝に着ていた破けたシャツ。
胸元が広がっているのも、ふとももが丸見えになっていることも、家族が居ないことも、一緒に帰ろうと誘われたことも、どうでもいいと思った。
小さく頷いた。
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あと数時間で絵美の十八歳の誕生日が終わる。
絵美を迎えに来た薫は、絵美の家族とは遠い親戚に当たるようだ。恐らく絵美が小さい頃からこの日のことを予想して、ある程度記憶の中に埋め込ませていたのだろう。
数時間、二人は何も会話をせずに病室でただじっとしていた。
薫は絵美の気持ちが落ち着くまで待っていた。絵美は何も考えられないままでただ空を見ている。
「コンコン…」
開け放たれた個室のドアがなる。
入口に付けられているカーテンが揺れて、隆彦が顔を見せる。
「あの、ここに藤岡絵美さんがいるって…あっ、絵美」
絵美の姿を見つけるや否や、笑顔を見せたが刹那でしかなかった。
「て…んし…?」
すぐに困惑した顔を見せる彼の目は、しっかりと絵美の羽根を凝視していた。
「隆…彦…?」
ふいに絵美に柔らかな笑顔が戻る。が、それもまた刹那でしかなかった。
「天使かよっ…!」
怯えるように言うその言葉は、絵美の体に否応なく突き刺さる。
「天使…は、無理だ…」
言葉を失う絵美。
「俺たち、友達…だよな」
じゃあな、と言ってカーテンの向こうへ消えていく。一筋の涙が頬を伝う。朝から泣きすぎて疲れた喉が言葉を遮る。
「か…る…。お家…帰…る」
床に用意されていたスリッパも履かずに、裸足のままぺたぺたと歩き出す彼女の後ろ姿は、タオルも床に落し、大きく破れた服から見える白い肌を隠すこともなく、ただ無気力だけを映し出していた。
誕生日から一ヶ月ほどが過ぎた高校の卒業式。
病院から出た絵美は、一週間ほどで学校へ通うようになっていた。
病院で隆彦と会ってからは、何事もなかったかのように会話をしている。
そう、本当の友達のように。
天使は忌み嫌われていたが街中で見かけることは少なくなかった。
珍しがられることは無かったが、教室では天使だというだけで哀れみにも似た態度を取る人も居てその都度隆彦が庇ってくれた。
「天使だからって今までと今日で絵美の何が変わったってんだよ!」
庇い立てしてくれる気持ちはとてもありがたかったが、一番必要としている隆彦に先頭を切って別れを告げられた病院での会話は脳裏に焼き付いてしまっている。
それでも隆彦が嫌いになれず、彼を目で追っている自分がいる。
けれども友達で――。
絵美の心は常に誰かに握り潰されているかのようだった。
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蛍の光を聞きながら教室へと戻って来た。
卒業アルバムをもらい、思い思いに友人達と会話を弾ませるクラスメイト達。
保護者達も少しずつ集まって来た。薫の顔も見えたが絵美には彼女の元に行く前に隆彦に伝えたいことがあった。
先程からキョロキョロと教室内を見回しても彼の姿が見当たらない。
まだ隆彦と付き合っていた頃、毎日通っていた中庭の木の下へと走っていた。
木の根を枕にして寝転がりながら音楽を聴いている姿を見つける。
「隆彦…」
ゆっくりと近づき、横に座る。
三月の空はまだ寒くて、素足に触れる木の根が体を冷やす。
絵美の気配を感じたのか、隆彦はヘッドフォンの片耳を外す。
「何時からここに?」
目を閉じたままの隆彦が、『まぁ、ぼちぼち』と呟いた。
制服に触れると、今さっき来たとは思えないほどに冷えている。
「ねぇ?」
絵美が遠慮がちに会話を始めた。
「だめかなぁ?」
「何が?」
木枯らしが枯れ葉を数枚持ち去った。
胸まである髪を押さえながらちらりと隆彦を見る。
体の上に落ちて来た枯れ葉を手で払いながら。
「…付き合ってよ」
寝返りを打ち、絵美に背中を見せる隆彦。
「お願い、好きなの。友達に戻るなんて嫌なの」
ブレザーの裾をつまんだ。
「それは言わない約束でしょ?」
飽くまでも友達の口調でおどけたように言った。
「ちゃんと聞いてよっ、あたしは真面目に言ってるの」
絵美の隣に座り直した隆彦は、聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
「男ってのは、体が目的で女作るやつってのがいるんだよな」
「え?」
そう言って、震えるほど拳を握り、下唇を噛み締める。
唖然として彼を見つめる絵美。
「女ってのは、飾りなんだよ…!」
吐き捨てると同時に立ち上がり、余りの言葉に歪んだ表情を見せる絵美に向かって手を差し延べた。
「おら、立てよ」
訳も解らず手を出して立ち上がった絵美をきつくきつく抱きしめた。
その力とは裏腹に、優しく彼女の髪を撫でる。丹念に。
「だから…忘れろ。俺はお前のことが大嫌いだ。だからお前のことをずっと忘れない。
だけど、お前は忘れろ。
俺のことを嫌いになって忘れろっ。忘れろよっ!」
そう言って痛いほどのキスを何度もする。
息がはっきりと白く見えるほど火照った体温。絵美の頬を流れる一筋の涙。
呼吸の荒くなった体を休めるように、絵美の額に自分の額を乗せる。
「なんでだよっ。何でお前なんだよ!」
絵美から体を離し、有り余る力で木の幹を何度も蹴る。
渇いた音を立てて枯れ葉が何枚も落ちて来た。
「別れるぞ!別れるからな!畜生!」
『そうか、こうゆうことか。世間が認めないんだね。世界が天使を拒絶してるんだ。
今までの天使はこれに皆堪えて来たんだ。だけどあたしは堪えられない。』
――あたしは生きていけない。
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