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「絵美ちゃん、起きた?」

何度目かの絵美の部屋。彼女は起きてこない。
時計の針は十二時をとうに過ぎている。
微笑んでいるかのように見える寝顔が薫の不安を和らげる。

「また後で見に来るわね」

薫は絵美の前髪を軽く掻き上げ撫でる。
床に落ちていたホワイトボードを枕元に置き、部屋を出た。


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「お前のせいだ!お前のせいでケイは!」
「止めてっ!止めてください…!」

ミアの金髪を鷲掴みにして力のかぎりに振り回す女性の悪魔。胸倉を掴み、殴り掛かる。

「お前が居なければケイはあんな姿にならずに済んだんだ!お前だけのうのうと生活しやがって!」

反論する間も与えずに何度も殴り掛かる。ミアは身篭っているお腹を無意識に庇い始めた。

「もしかして子供がいるのか!」

顔を真っ赤にした悪魔はお腹に膝蹴りを入れる。

「お願いっ!止めてください!」

当たり前のように彼女の言葉を無視し、髪の毛を掴み直すと地上まで勢い良く引きずっていく。

「天使の孫なんて胸糞悪くなる!地上で生き絶えて二度とケイに近づくんじゃないよ!」

「地上に行ったら貴女は死んでしまうっ!」

「お前を殺せるならどうでもいいんだよっ!」

全速力で地上へ向かいミアを地面に叩き付ける直前にケイの母親は生き絶えた。
しかし、ミアもまた激しい衝撃に命を奪われる直前。

「貴女には生きてもらわなければ…」

数分後に生き絶えたミアは人間に見られることもなく、天使界から迎えが来ることもなかった。


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目を覚ました絵美の瞳は相変わらず何も映さない。
今が一体何時なのかもわからないが、随分と長い間眠っていただろうことは想像がついた。

つい昨日も見た夢の続きを見ていたのだろうが、何とも懐かしい景色であったのが不思議でならない。

だが、自分達天使が存在するようになった本当の理由が、沈黙の天使である自分の存在意義が、判るような気がしてならなかった。

ゆっくりとベッドから降りて一階へと移動する。目が見えないはずが、しっかりと自分の歩く道が解る。

リビングまで来たときの薫の驚きは容易に想像できるだろう。

時刻は既に夕方を過ぎていた。外は暗くキッチンからは夕食のいい香が漂っている。

「転ばなかった?何度か起こしに行ったんだけど、ずっと眠っているようだったから…」

部屋から出てきたことに大きな喜びを感じている薫。
目頭が熱くなるが、それを悟られまいとしっかりとした口調で喋る。
しかし、絵美は真っすぐと彼女のところへ向かい、指先で涙を拭った。

「絵美ちゃん、目が…?」

そう言って絵美の肩を掴みしっかりと彼女の瞳を見るが、無表情のまま首を横に振られた。

小さく『そっか』と呟いたものの、絵美をしっかりと抱きしめ部屋から出て来たことを心から喜ぶ薫だった。

「調度今ご飯が出来たから一緒に食べましょう」

絵美の手を引いてテーブルまで行こうとしたところ、絵美は支えを必要ともせずに、一番近い椅子を引き、座る。

驚きを隠せない薫は先程と同じ様に目が見えているの?と質問をしてしまうが、絵美もまた首を横に振るだけだった。

実際彼女の目は何も映さない。微かな明暗以外は何も判らないはずなのだが、不思議と周りの状況が判っていた。

目が見えなくても判るのね?と喜ぶ薫は尚も言葉を続ける。

「じゃあ、一緒にショッピングとか出来るかしら?もう少し暖かくなったら近くの公園まで散歩もいいわね」

興奮する薫に何か返答したい絵美だったが、表情を変えられない彼女には、土台無理な話だった。しかし不思議と落ち込むことはなかった。

恐らく本当に喜んでくれている彼女の心が判ったからだろう。

相変わらず食事の量は微々たるものだったが、久しぶりに楽しい食事が出来たと薫は尚も興奮気味だった。

何かお話しましょうと会話を切り出した薫が、絵美の部屋へホワイトボードを取りに行こうとした時、絵美の口元がせわしなく動いた。

何度も同じ動きを見せるその口は明らかに隆彦と言っていた。

「隆彦くん?隆彦くんの話を聞きたいの?」

しっかりと何度も頷く絵美の横に座り、いつから何処で彼と話をするようになったか、その一部始終を覚えている限り話始めた。

気付けば二人ともダイニングテーブルに持たれて眠っていた。
「すみません、急に家まで来てしまって…」

ダイニングテーブルに座ったまま深々と頭を下げるのは、平日の昼間に薫の家を訪れた隆彦だ。

「いいのよ。あなた、絵美ちゃんに会いに病院まで来てくれたんだったわよね?コーヒー飲める?」

対面キッチンの中から薫が顔を出してコーヒーカップを見せる。

「あ、はい。えっと…。はい、病院に行きました。びっくりして、絵美に酷いことを言ってしまって…傷つけたと判ったんですが、傷つけたのを確認するのが怖くて病室から逃げてしまったんで…」

インスタントのコーヒーをカップに入れて、お湯を注ぐ薫。悲しげな表情で何も語らない。

「あの…すみません…やっぱり、帰ります…」

居づらくなり、思わず口から出た言葉だが、居座りたい気持ちでいっぱいだった。

「絵美ちゃん、沈黙の天使なんだって」

隆彦の前にコーヒーを置いて呟いた。

「絵美が?!」

俯き加減だった隆彦だったが、その言葉に反応して席を立ってしまう。

「落ち着いて。あなたが絵美ちゃんに何をしたいのかは解らないけれど、この世の中、天使に関わると貴方が大変な目に会うかもしれない。
それでもいいなら話を聞くし、解る限りの返答をするけれど…」

向かい側の席に座る薫は、寂しげな表情を隠す事なく、けれどもしっかりと隆彦を見て言う。

「俺…絵美が大事なんです。
すごく大事で、手放したくなくて居ます。

絵美が俺のことを嫌いになったとしても、陰から、いや、嫌がられても正面から助けてやりたいんです。
だから、絵美が沈黙の天使なら、その情報を少しでも欲しいんです」

不安げながらもしっかりと薫の目を見て話始める隆彦に彼女もまた問い掛ける。

「自分が天使だというだけで蔑まれ、羽根が生えているというだけで人間じゃないと罵られ、友達が出来ても自分が天使だからという理由で自然と嫌われてゆく。

そんな彼女を守っていくと言うの?しかも、末裔である沈黙の天使の彼女を!?

今まで以上に過酷な生活を送るかもしれない。
今よりも楽な生活になることはまずないのよ?それでも彼女の傍に居られるの?」

「はい!何があっても絵美から離れません!」
『パァァン!』

リビングに響く平手打ちの音。

「じゃあ、何故病院であんな表情を見せたの?
何故あんな言葉を吐き捨てて出て行ったの?!

貴方だって見た目だけで彼女を非難したじゃない!
それでのうのうと彼女を助けたい?
半端な気持ちで、珍し物好きの感覚で言ってるだけなら今すぐ帰りなさい!」

喉が枯れるほどの大きな声を張り上げ、若干肩で息をする薫は、怒りの中に沢山の悲しみを含んだ表情で隆彦を見つめ続ける。

一瞬戸惑いを見せたもののしっかりとした表情で薫を見つめ返す隆彦。

「もう二度と絵美を傷つけることはしません!もう二度と彼女を裏切りません!」

逸らす事なく薫の目をじっと見つめる。一点の狂いもなく、しっかりと。

フッと、力を抜いた薫の表情に笑みが戻る。

「叩いたりしてごめんなさいね。でも、半端な気持ちじゃ最後まで貫き通すことは出来ないと思うわ。本当に大丈夫?」

「…はい。もう迷いはないです」


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「えっ?!絵美が喋れないんですか?!」

隣街の寂れた喫茶店とは言え、天使を怪訝な目で見、同席している隆彦でさえ、遠巻きに哀れむ目を寄せる店内の客。
しかし、絵美を助けてあげたい薫も、絵美のために何かしてあげたい隆彦も、周りの目を気にすることはない。

「表情も作ることが出来ないみたいで、目も見えない。口だけじゃなく、なにもかもが沈黙してる。解るのは触れるものと音だけ。」

「そんなこと…」

「隆彦っ!お前は天使なんかと話しやがって何やってるんだ!」

「親父…!」


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「またこの喫茶店で大丈夫だったかしら…?」

「絵美や薫さんの家は知られたくないんで…」

「あの日の夜から、絵美ちゃん少しだけどご飯を食べるようになってくれたの。
本当にちょっとなんだけどね。私の言葉に反応して首を振ったり頷いたり、少しだけど元気が出て来たみたいよ」

「本当ですか?!じゃあ俺、筆談しに行きますっ!大丈夫ですよ、ちゃんと会話できます!」


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ダイニングにある時計の針の音が聞こえる。
うっすらと目を開けた隣には相変わらずの無表情で眠る絵美の姿。

照明の真下に居るからか絵美の羽根の付け根が微かに光っているように見えたが、余り気に留めずに押し入れから布団を運んで来た。

「ベッドまで運んであげたいけど、起こしてしまいそうだから止めておくわ」

とりあえず床に来客用の布団を持ってきた薫は絵美の頭を撫でる。

「今日は布団で我慢してね」

ダイニングテーブルの近くに布団を敷き、出来るだけ優しく彼女を布団へ移す。
電気も消して月明かりしかないはずが、絵美が寝ている布団から微かな明かりが見えた。少しだけ布団をめくってみると、はっきりと羽根が光っているのが確認できる。

綺麗な光で白い羽根がより一層白く輝いて見えたが、これから彼女に降り懸かる運命が良いものなのか、悪いものなのか、薫にはわかるはずもなかった。
街はずれの喫茶店には区切られた空間でゆっくりとくつろげるコーナーがある。俗に言うネットカフェだ。

暫く前から絵美と薫は席に着いている。同じ時間に待ち合わせて、誰かに見られないようにとの薫の判断だった。

しかし街はずれとは言え、天使を見る目が和らぐことはなくコーヒーを運んで来た店員ですら怪訝な顔で二人を見る。
特に絵美に至っては、ずっと無表情で会話すらしないので、不気味がる人が居ても致し方ないと言うしかないだろう。

「ごめん、ちょっと遅れた。すみません、薫さんも」

時計は一時半を少し過ぎた頃。少しだけ焦り気味の隆彦が絵美の隣に座る。

「こっちこそ、急に呼び出すような形になってしまってごめんなさいね。絵美ちゃんが私たちに伝えたいことがあるからって。ねぇ」

顔を絵美に向けると、左手を揃えて顔の前に縦に置き、無表情ながらも『ごめんっ』と言わんばかりに頭を細かく下げている。
その右手にはしっかりとホワイトボードが握られている。

「すみません、コーヒー一杯追加で」

薫が通り掛かった店員に声をかけると、面倒臭そうに返事をして伝票を持って行った。隆彦が小さく舌打ちした。

絵美がボードをテーブルの上へ出し、夢を見たと書く。

「あれ?お前目が見えるように…?」

ホワイトボードと絵美の顔を数回見比べる隆彦だが、先日の薫と同様、首を振る。

「私もびっくりしたのよ。外を歩くときも手を繋がなくても大丈夫だし、家の中でも普通に階段を駆け登ってるのよ。
不思議だけど、何か良いほうに進む前兆であってほしいわ」

コーヒーが運ばれてから絵美は不思議と忘れることのない、むしろ懐かしく思う夢の内容を話始めた。

天使と悪魔が出会ったいきさつ。愛の芽生えた二人の話。天使が悪魔に殺される話。今まで見た三種類の夢を事細かに説明した。

「この夢の内容を伝えたかったのか?」

隆彦の言葉を遮るかのように薫が興奮気味に口を挟んだ。

「これってもしかして、過去の記憶?でも、何千年も昔の話だもの、単なる夢なのかしら?絵美ちゃんはどう思うの?」

すらすらとペンを運ばせる。

『多分過去の出来事だと思う。懐かしい感じがする。
ミアが死んでしまったのがこの地球なら、沈黙の天使の私は、ミアのお腹にいた赤ちゃんと関係があるんじゃないかと思ってる。
だとしたら、沈黙の天使の存在理由と存在意義が判るんじゃないかと思う』

夢が過去の出来事であるならば、恐らく絵美の言う通り引き続き夢を見続ければ何か答えが見えるかもしれない。

しかし、それがよい結果になるのか、悪い結果になるのか、見当も付かない。
それぞれが思い思いに思考を巡らせていた。

「絵美ちゃんの羽根が光っていたのも、何か関係があるのかしら?」

不意に思い出した薫が呟いた。あごに手を当て、あれは絶対光ってたと続ける。

「絵美の羽根が?」

照明のきつい店内で目をこらしても、羽根が光っているようには見えない。絵美ですら自分の羽根が光っていたことなど気付いていなかったほど微かなものだろう。

二人がまじまじと羽根を見ていた時、店員が声をかけて来た。