「よかった!また少し食べられたのね」

一人で食べられるようにベッドのすぐ傍に小さなテーブルが設置された。
今の所食べられるのは晩御飯のみで、朝や昼ご飯は何も手を付けることがない。

それでも毎食、薫は食事とオシボリを運び取りに来る。
そして今回のように、少量でも心から喜んでくれた。

卒業式が過ぎてから初めて食べ物を口にしたときはあまりの喜びに目を潤ませた。

その喜びがわざとではないことに絵美もまた喜び、少しずつではあったが期待に応えようと生気を取り戻して来ていた。


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五月に入った頃隆彦が会いに来た。
また会いに来ると言っていたものの、長い間訪れなかったため不安が頭から離れなくなっていた頃だった。

「…絵美」

部屋に入り、ゆっくりとベッドの傍に座る。

「飯、食えるようになったって聞いたけど、体調はいいのか?」

上半身を起こして手探りで隆彦の体を探し、小さくもしっかりと頷いた。

「元気になって来たって聞いて、これ持って来たんだ。」

そういって小さな紙袋から出したのは横幅二十センチほどのホワイトボードだった。

「筆談しようぜ?」

太めのサインペンを絵美に持たせて膝の上にボードを置いた。

「さぁ、なんの話をする?平仮名で一文字ずつ重ねて書いてくれていいから。ちゃんと見てるから」

ボードの場所とサイズを確認して、ゆっくりと文字を書き始めた。

「ゆ」

「め」

「を」

「み」

「た」

「夢?」

そして『てんしとあくま』と続けた。

「なんだそりゃ」

どんな内容の?と続けて聞こうとした時、下から軽く音を立てて薫が階段を駆け登って来た。

「隆彦くん、お父さんが…!」

薫の言葉を遮るかのように家のインターホンが何度も響き渡る。
それに続いて玄関のドアを叩く鈍い音。

急いで駆け降りた薫がドアのキーチェーンを掛けて鍵を開ける。
勢いよく引いたドアはチェーンのおかげで、数センチしか開かない。

「オイ!ここに隆彦が来てるんだろう!?返しやがれ糞天使!」

ドスの効いた低い声が響き渡る。
何度も罵声を飛ばし、薫は怯え、絵美はボードを抱きしめうずくまる。隆彦はその言葉から沸き上がる怒りに堪えていた。

「てめぇら天使は唯の化けもんじゃねえか!」

「適当なことぬかしてんじゃねえよ!」

隆彦が吠えた。
びくついた絵美の頭を軽く抱きしめる。

「絶対また来るから。俺はお前を忘れない。絶対にだ」

絵美の額に口づけして階段を降りて行った。

「隆彦!お前もお前だ!糞天使の家に来るなんて気が狂ったか!?」

止まらない罵声に飛び交う叫び声。薫は何も出来ずに玄関でうろたえていた。

ホワイトボードを抱えたままベッドに潜り込んだ絵美は、表情を変えることも無く、涙を流すことも無く、ただ心が死なないように堪え続けていた。


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夜。
夕食を運びに来た薫がゆっくりと話始めた。

「隆彦くんとは、何度か会わせてもらってたの。その時に絵美ちゃんの近況を伝えていたのだけど、筆談が出来るほど元気が戻ってないんじゃないかって言っちゃった。

彼はあなたのことを良くわかってるのね。失礼なこと言っちゃったかと思って…ごめんね、絵美ちゃん」

その目に映らないと判っていても深々と頭を下げた。
絵美は無言のままベッドの上で体育座りをしている。

「また時間を見て会ってきてもいいかしら?」

遠慮がちに絵美の顔を覗くと小さく何度も頷く姿が見えた。そしてホワイトボードを出すと「しんじてる」と、「まってる」と、薫に書いて見せた。

その日の夜は、薫が持ってきた少量のご飯の半分程を口にして床についた。
「ミア、今日は何か話はあるのか?」

数多の時を通りすぎ、白と黒の羽根は愛を唄い合うようになっていた。

「あなたは本当に天使の世界に憧れてるのね。そんなに天使になりたい?」

寄り添うように佇む二人。その瞳は相手を慈しんでいる。禁じられた愛だとしても、心まで制御されることはなかった。

「天使になりたい。天使になって毎日ミアと一緒に生活して、地上を眺めて幸せをみんなに振り撒くんだ」

青年の輝く瞳はミアにとって眩しく見える。
しかし二人の距離はなかなか縮まらない。

悪魔が天使にうつつを抜かすなと家族や長から言われ続けているケイ。

同様に、悪魔に近づくと生きて帰られなくなると戒めを聞かされる毎日のミア。

だが二人の距離が遠く離れることは想像もしていない。
ただこの時間が愛おしいだけ。この時間だけは奪われたくない。

それゆえ、これ以上近づいて相手に傷が付くのを双方が恐れていた。

愛を表すこともせず、天使界、悪魔界におおっぴらに知られても困らない程度の会話しかしない。
しかし、双方がしっかりと相手を愛し、慈しみ、暖かい眼差しを送っている。

抱きしめたい。口づけしたい。愛を伝えたい。触れ合いたい。
そのすべてを表にださないように毎日の短い時間が過ぎていく。
すぐ近くには監視の目がいくつもあったのだ。


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「絵美ちゃん、起きた?」

何度目かの絵美の部屋。彼女は起きてこない。
時計の針は十二時をとうに過ぎている。
微笑んでいるかのように見える寝顔が薫の不安を和らげる。

「また後で見に来るわね」

薫は絵美の前髪を軽く掻き上げ撫でる。
床に落ちていたホワイトボードを枕元に置き、部屋を出た。


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「お前のせいだ!お前のせいでケイは!」
「止めてっ!止めてください…!」

ミアの金髪を鷲掴みにして力のかぎりに振り回す女性の悪魔。胸倉を掴み、殴り掛かる。

「お前が居なければケイはあんな姿にならずに済んだんだ!お前だけのうのうと生活しやがって!」

反論する間も与えずに何度も殴り掛かる。ミアは身篭っているお腹を無意識に庇い始めた。

「もしかして子供がいるのか!」

顔を真っ赤にした悪魔はお腹に膝蹴りを入れる。

「お願いっ!止めてください!」

当たり前のように彼女の言葉を無視し、髪の毛を掴み直すと地上まで勢い良く引きずっていく。

「天使の孫なんて胸糞悪くなる!地上で生き絶えて二度とケイに近づくんじゃないよ!」

「地上に行ったら貴女は死んでしまうっ!」

「お前を殺せるならどうでもいいんだよっ!」

全速力で地上へ向かいミアを地面に叩き付ける直前にケイの母親は生き絶えた。
しかし、ミアもまた激しい衝撃に命を奪われる直前。

「貴女には生きてもらわなければ…」

数分後に生き絶えたミアは人間に見られることもなく、天使界から迎えが来ることもなかった。


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目を覚ました絵美の瞳は相変わらず何も映さない。
今が一体何時なのかもわからないが、随分と長い間眠っていただろうことは想像がついた。

つい昨日も見た夢の続きを見ていたのだろうが、何とも懐かしい景色であったのが不思議でならない。

だが、自分達天使が存在するようになった本当の理由が、沈黙の天使である自分の存在意義が、判るような気がしてならなかった。

ゆっくりとベッドから降りて一階へと移動する。目が見えないはずが、しっかりと自分の歩く道が解る。

リビングまで来たときの薫の驚きは容易に想像できるだろう。

時刻は既に夕方を過ぎていた。外は暗くキッチンからは夕食のいい香が漂っている。

「転ばなかった?何度か起こしに行ったんだけど、ずっと眠っているようだったから…」

部屋から出てきたことに大きな喜びを感じている薫。
目頭が熱くなるが、それを悟られまいとしっかりとした口調で喋る。
しかし、絵美は真っすぐと彼女のところへ向かい、指先で涙を拭った。

「絵美ちゃん、目が…?」

そう言って絵美の肩を掴みしっかりと彼女の瞳を見るが、無表情のまま首を横に振られた。

小さく『そっか』と呟いたものの、絵美をしっかりと抱きしめ部屋から出て来たことを心から喜ぶ薫だった。

「調度今ご飯が出来たから一緒に食べましょう」

絵美の手を引いてテーブルまで行こうとしたところ、絵美は支えを必要ともせずに、一番近い椅子を引き、座る。

驚きを隠せない薫は先程と同じ様に目が見えているの?と質問をしてしまうが、絵美もまた首を横に振るだけだった。

実際彼女の目は何も映さない。微かな明暗以外は何も判らないはずなのだが、不思議と周りの状況が判っていた。

目が見えなくても判るのね?と喜ぶ薫は尚も言葉を続ける。

「じゃあ、一緒にショッピングとか出来るかしら?もう少し暖かくなったら近くの公園まで散歩もいいわね」

興奮する薫に何か返答したい絵美だったが、表情を変えられない彼女には、土台無理な話だった。しかし不思議と落ち込むことはなかった。

恐らく本当に喜んでくれている彼女の心が判ったからだろう。

相変わらず食事の量は微々たるものだったが、久しぶりに楽しい食事が出来たと薫は尚も興奮気味だった。

何かお話しましょうと会話を切り出した薫が、絵美の部屋へホワイトボードを取りに行こうとした時、絵美の口元がせわしなく動いた。

何度も同じ動きを見せるその口は明らかに隆彦と言っていた。

「隆彦くん?隆彦くんの話を聞きたいの?」

しっかりと何度も頷く絵美の横に座り、いつから何処で彼と話をするようになったか、その一部始終を覚えている限り話始めた。

気付けば二人ともダイニングテーブルに持たれて眠っていた。
「すみません、急に家まで来てしまって…」

ダイニングテーブルに座ったまま深々と頭を下げるのは、平日の昼間に薫の家を訪れた隆彦だ。

「いいのよ。あなた、絵美ちゃんに会いに病院まで来てくれたんだったわよね?コーヒー飲める?」

対面キッチンの中から薫が顔を出してコーヒーカップを見せる。

「あ、はい。えっと…。はい、病院に行きました。びっくりして、絵美に酷いことを言ってしまって…傷つけたと判ったんですが、傷つけたのを確認するのが怖くて病室から逃げてしまったんで…」

インスタントのコーヒーをカップに入れて、お湯を注ぐ薫。悲しげな表情で何も語らない。

「あの…すみません…やっぱり、帰ります…」

居づらくなり、思わず口から出た言葉だが、居座りたい気持ちでいっぱいだった。

「絵美ちゃん、沈黙の天使なんだって」

隆彦の前にコーヒーを置いて呟いた。

「絵美が?!」

俯き加減だった隆彦だったが、その言葉に反応して席を立ってしまう。

「落ち着いて。あなたが絵美ちゃんに何をしたいのかは解らないけれど、この世の中、天使に関わると貴方が大変な目に会うかもしれない。
それでもいいなら話を聞くし、解る限りの返答をするけれど…」

向かい側の席に座る薫は、寂しげな表情を隠す事なく、けれどもしっかりと隆彦を見て言う。

「俺…絵美が大事なんです。
すごく大事で、手放したくなくて居ます。

絵美が俺のことを嫌いになったとしても、陰から、いや、嫌がられても正面から助けてやりたいんです。
だから、絵美が沈黙の天使なら、その情報を少しでも欲しいんです」

不安げながらもしっかりと薫の目を見て話始める隆彦に彼女もまた問い掛ける。

「自分が天使だというだけで蔑まれ、羽根が生えているというだけで人間じゃないと罵られ、友達が出来ても自分が天使だからという理由で自然と嫌われてゆく。

そんな彼女を守っていくと言うの?しかも、末裔である沈黙の天使の彼女を!?

今まで以上に過酷な生活を送るかもしれない。
今よりも楽な生活になることはまずないのよ?それでも彼女の傍に居られるの?」

「はい!何があっても絵美から離れません!」
『パァァン!』

リビングに響く平手打ちの音。

「じゃあ、何故病院であんな表情を見せたの?
何故あんな言葉を吐き捨てて出て行ったの?!

貴方だって見た目だけで彼女を非難したじゃない!
それでのうのうと彼女を助けたい?
半端な気持ちで、珍し物好きの感覚で言ってるだけなら今すぐ帰りなさい!」

喉が枯れるほどの大きな声を張り上げ、若干肩で息をする薫は、怒りの中に沢山の悲しみを含んだ表情で隆彦を見つめ続ける。

一瞬戸惑いを見せたもののしっかりとした表情で薫を見つめ返す隆彦。

「もう二度と絵美を傷つけることはしません!もう二度と彼女を裏切りません!」

逸らす事なく薫の目をじっと見つめる。一点の狂いもなく、しっかりと。