六畳ほどの部屋には窓が一つ。花柄のレースのカーテンが掛かった窓から朝日が覗く。
時計の針は七時過ぎを指し示していた。

シンプルなパイプベッドに、水色の布団カバーにベージュの毛布。
絵美が腰かけているそのベッドから見下ろして見ているのは、口から大量の血を流して呻いている母親――弘子の姿だ。

「ゴボッ…!」

やっとのことで体を支える右腕は、カタカタと揺れている。
左手で喉元を抑えながらゆっくりと床へ沈んでゆく。

口から流れた血液は首を、肩を、みるまに赤く染めあげてゆく。
その光景を凝視している絵美の背中には暖かな太陽の日差し。
そして細く開いたドアの奥でそのドアノブにしがみついている祖母だけだ。


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絵美が弘子と会話をしていたのは丁度七時をまわった頃。

『明日は大事な用事があるから学校をお休みしなさい』

昨日の夜そう声をかけてきた弘子の言葉を聞いて怪訝そうな顔をする絵美。

隆彦と会えないじゃない。

ごくごく平凡な高校生活を送っていた絵美にとっては彼氏に会うというのが登校の何よりの理由だった。
自分の誕生日だともなればなおさら不服だろう。

普段より三十分ほど遅く絵美を起こしに来た弘子は、何の前触れもなく話し始めた。

「あなたは今日で十八歳。お母さんは今日で絵美とお別れしないといけないの。そして最後の仕事をするの。あなたを天使にするの」

しっかりと絵美を見つめる弘子の表情には諦めが映し出されている。
しかし気丈に振舞っている表情も読み取れた。

「天使?何言ってんのよママ」
「……しっかり見ておくのよ」

そう言って絵美の毛布をめくり、そこに座らせた。
それから弘子の体が赤く染まるまでには数分もかからなかった。

絵美の目に映る光景はあまりにも非現実的で、彼女の頭の中は渦を巻いて混乱している。
床に突っ伏し、背中で息をする弘子が最後に大きく痙攣し、何度目かの血を吐いた。

その瞬間。

絵美の背中からは身の丈ほどもある真っ白な羽根がいくつもの羽を大きく揺らし、空に向かって広がった。

東の空に浮かぶ太陽は、広がり続ける赤い血液と真白に広がる羽根を分け隔てなく照らし続けている。


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十分、十五分、絵美の身体は身動き一つしなかった。目の前の出来事が現実であるということを体全体で拒絶している。
やけに大きく聞こえる時計の秒針が絵美の現実逃避を阻む。

「―――あれ……?」

声とも言えない小さな言葉が絵美の口から零れ落ちた。

「いやあぁぁぁぁぁぁぁ――――!!」

改めて視界にとらえた母親の姿。先ほどまで悶えていた形跡もなくピクリとも動かない。

目の前で起こったことに対して襲い掛かってくる恐怖と不安。そして自分を見失いそうになる程の深い深い、

ーー闇。

絵美はその場から逃げたい一心でまずはベッドの上へ足を上げようとするが思うように動かない。
踵がパイプベッドの端に何度もぶつかる。

『カチャ…』
「嫌ァァァァァ!」

小さな物音が普段の何十倍もの恐怖となって絵美に襲い掛かる。

ゆっくりと開いたドアの向こうには、同じ時間耐えていたのか泣きはらした目で絵美を見つめる祖母がいた。

「お…っ…ばぁ…ちゃ……」

むせて喋るのもおぼつかない。絵美は母親を避けるように壁伝いに這いつくばって祖母の元へ向かいしがみついた。


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気付けば午前十時頃。
自分の部屋からリビングへと移動していたが、絵美はどうやってリビングに降りてきたのか記憶が途切れていてよく覚えていない。

そして羽根が生えたために服が破けたことも、薄手のタオルが体に掛けられていることにも気付いていなかった。

「絵美ちゃん、十八歳になったのね…」
絵美に表情はなかった。

「少し落ち着いたかしら?」

絵美の背中を隣でずっと撫でていた祖母は食卓テーブルを支えにして立ち上がる。椅子に座る絵美の頭を軽くなでると、キッチンへ向かいお茶を煎れ始めた。

「あたし――天使なの?」

身動き一つせずに絵美は言う。

「天使って、不幸の象徴なんでしょ?天使になると家族が居なくなるって、存在しちゃいけないって!」

祖母の持ってきた二つの湯飲みが静かに置かれる。

「そうね……。みんなそうやって長い寿命を生きてきたわ」
祖母は手の中で湯飲みを回した。

「天使にもよるけど、子供を作ることを許されず、一人の人を愛することも許されず、ただ生きて死を迎える。
皆が知っていることだから、近づいてくる人も居ない。
沈黙の天使が現れるまでは、誰も逆らうことが出来ない運命」

なんて残酷な話だろう、と祖母の脳裏によぎる。が、しかし何も出来ない。
何もしてあげられない。

世の中では既に知られていることだが、世界中に1億程の天使が存在する。

そしてそのすべての天使に哀しい運命が用意されているのだ。すべての天使共通の運命、それは異性と結ばれることが無いということ。
すべて女性ということ。

そして、自分以外の家族がすぐに死を迎えるということ。

中には天使とすれ違った時に違和感を感じ、しばらくして娘が天使になったという例もあったようだ。
あまりのショックで自殺を計ろうとするものも居たが、その回復能力の早さに誰もが長い寿命以外で死ぬことがなかった。

そもそもの始まりはきらびやかに着飾る天使を羨んだ悪魔が地上に一人の天使を連れてきて殺してしまったと言うことだが、何千年も昔の話で定かではない。

「……沈黙の天使って、いつ生まれるの?」

湯気の無くなりかけた湯飲みを眺めながら絵美が言う。
即答する祖母。

「今日産まれたわ。あなたよ」

今まで身動き一つしなかった絵美の体が少しだけ揺れた。
祖母はそれ以外何もしゃべらずにゆっくりと立ち上がり寝室へと向かった。

「ママ……」

リビングに一人になった絵美は不安に押し潰されそうになりながら、母親を思い浮かべる。

亡きがらは既に寝室から運び出されていた。今日の日を知っていた祖母と母親が数日前より準備をしていたのだ。
そうなる運命だと決まっていたことが祖母にも母親にも辛いことであったのは間違いないだろう。


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ふと時計を見ると十一時を過ぎていた。祖母は寝室へ行ったまま戻ってこない。すでに冷め切ったお茶を一口、口に含む。

「おばあちゃん、どこ?」

嫌な予感がする。同じ姿勢で座っていたからか、痺れかけた足を庇いながら祖母の寝室へと移動する。

ドアは半分程開いていた。ゆっくりと押し開けると、ベッドの上に何枚かの衣服が散らばっている。

『あたし、服が…』

自分の着ていたものが破れているのに気付きベッドの上に手を伸ばそうとした時、その裏側からはみ出す足を見つけた。

『ドクンッ!』

心臓が波打つ。ゆっくりと近付き触れたその足は祖母のものだった。

フローリングに無造作に倒れ込むその顔は苦痛に満ちている。

「お、おばあちゃん?おばあちゃん?!」

何度も揺するが反応がない。冷たくなった足先。呼吸のない体。

「いや、いやぁ……いやあぁぁぁ!」

ぽたぽたと音を立てて大粒の涙が床へ落ちる。

「ママ…おばあちゃん…ママ…おばあちゃん…」

いつしか絵美は気を失っていた。
うっすらと開けた絵美の視界には、古ぼけた天井が見える。
コンクリートにも見える、シンプルな天井。
ゆっくりと見回すと、大きな窓。

周りから遮断されているように掛かるクリーム色のカーテン。
そして頑丈なベッドに横たわる自分。

病院だった。

ゆっくりと上半身を起こして、今一度周りを見る。
近くにあったテーブルの上には小さな花瓶にかわいらしい花が活けられている。
いまいち自分の状況が把握できない絵美はゆっくりと記憶を辿る。

誕生日。

祖母。

母。


羽根……。


「い、嫌、嫌…」

自分の意思で動く羽根。
零れる羽。

「いやぁぁぁ!」

頭を抱える腕。
後退りをする体。

その足で布団を蹴落とし、ベッドを勢いよく揺らし、近くにあった花瓶が落ちる。
壁にぶつかる背中は、落ち着くばかりか、より一層撹乱させる。
叫び声を聞いて看護師が走り込んで来るまでは、そう時間は掛からなかった。