ところで。俺は今ひとりの女の子を探してる。
聞いた話によると、王子の妹もこの学校にいるっていうんだ。この事実が、入学してから一ヶ月も置き去りにされてたなんて、みんなどれだけ混乱してたんだって感じだよね。まったく重大、最重要事項なのに。
どんな子なんだろう。やっぱり王子に似てるのかな。でも双子で性別が違うってことは二卵性だよね。だったらぜんぜん違うタイプかもしれない。お近づきになりたい。もし王子みたいにキラッキラでおそれ多くても、相手が女の子なら俺は負けずに愛しにいくよ!
それなのに、どうして?探し始めて、もう一週間くらい経つのに、彼女はまだ見つからない。A組にいるのは調査済み。あいりちゃん、って名前なのも聞いたよ、名前からすでにカワイイね。だから休み時間や放課後にちょくちょくA組をのぞきに行ってるのに。あいりちゃんって、忍者か何かなの?忍んでるの?
毎日探すのに夢中になってたら、付き合ってた彼女をほったらかしにしちゃって、昨日ついにフラれた。まぁ、その子とはあんまり性格が合わなかったし、別にいいんだ。それより俺は、あいりちゃんに会いたい。
今日こそは、と昼休みにA組へ向かった、そこで俺を待ち構えていたのは。
「最近コソコソと何を嗅ぎまわってるの、秋山」
うるさいのに見つかっちゃったなぁ。手足が枝みたいに細長くて、日本人形にそっくりな髪型をしてる辛気臭い女、遠野円香。切れ長の目をつり上げて、教室の入口をふさぐみたいな仁王立ちが様になってるね。遠野もあいりちゃんと同じA組だから、気づかれないように注意してたんだけどなぁ。相手するの、面倒なんだよね。
なんでもないよ、ってごまかして逃げようとしたのに。
「知ってるのよ、王子の妹を探してるって」
あれ、バレてた。
「えー、分かってて今まで知らん顔してたの?ひどくない?」
「全然ひどくない」
「もしかして、あいりちゃんが今どこにいるか知ってる?」
「知ってても教えるわけないでしょ」
俺をにらみつける瞳の温度が氷点下だ。ほら、通りがかった男子が怖がって逃げてっちゃったよ。
「どうしてそんな意地悪するの?俺はあいりちゃんに会いたいだけなのに」
「まぁ抜け抜けとそんなことが言えるわね。己の行いを、よぉーく顧みてみなさいよ。会うだけで済ませる気なんてさらさらないことは分かってるのよ」
たしかに、会えたら仲良くなりたいし、仲良くなったら付き合いたいし、付き合ったらその先も、なんて考えてはいるけどさ。あくまでお互いが惹かれあった結果そうなるんだったら、なんの問題もないよね。なのに、どうしていつも俺の恋愛に目くじら立てるのかな。
「遠野、口うるさくて可愛くない。そんなんじゃいつまでも処女のままだよ」
「は、話をそらさないで!そんなふうに、いつもいつも、不健全な価値観で人を評価するのはやめなさい!」
言い回しが可笑しくて、ふき出してしまった。真っ赤になっちゃって、からかい甲斐があるなぁ。
「不健全な価値観ってなに?あはは、ウケるんですけど!」
「真面目な話をしてるのよ!もうっ……」
もっと突っかかってくるかと思ったのに、遠野は大きなため息をついて、すぐに冷静になってしまった。
「彼女は、秋山が思ってるような子じゃないと思う。だから興味本位で妙なちょっかいを出さないであげて」
「それを判断するのは遠野じゃなくて俺だよ」
「……それから!彼女だけじゃなくて、手あたり次第に女の子を口説くのはやめて。いい加減、見苦しいって気づいて。お節介なのは分かってるけど、幼馴染みがダメ男になっていくのは見てられないのよ」
なにを深刻になっちゃってるんだろう。俺のことダメ男なんて思ってるのは遠野くらいだよ。女の子はみんな、俺が笑いかければ喜んでくれるし、優しく接すれば好きになってくれるのに、同じことしたら遠野はムチャクチャ怒る。ほんと、変わってるよね。
あーあ、白けちゃった。あいりちゃんのこと教えてくれそうにないし、もういいや。
「どこに行くの?」
「べつに~。遠野がいないとこ」
あからさまにツンとして背中を向けたら「いつか痛い目みるわよ」って呪いみたいな声が聞こえてきて、ますます面白くなくて足早にA組から離れた。
昔は、こんなんじゃなかった。
同じアパートに住んでる円香ちゃんは、可愛くて頼りになるお姉ちゃんみたいな子だった。
俺は他の子より成長が遅くて体が小さかったから、よく近所の悪ガキにいじめられてたんだ。そんなとき、いつも俺を助けてくれたのが円香ちゃんだった。体の大きい年上の男の子相手に、円香ちゃんは少しもひるまずに立ち向かって、いっさい手を出さず、いつも口だけで勝った。かっこよかったなぁ。そして、泣いてる俺に毎回言ってくれたんだ。
力が強くても優しくなきゃ意味がない、優しい隼くんのほうが素敵だよ、って。
弱くて情けない自分を肯定してくれる円香ちゃんは、間違いなくあのときの俺の支えだった。だから負けずにがんばろうと思えたのに。
あの優しい円香ちゃんは、どこに行っちゃったんだろう。
ため息をつきながら階段を下りてたら……コケた。最後の一段を見落としたみたい。尻もちをつきそうになって、とっさに後ろに手をついて受け身を取ると、仰向けで階段にはりついているみたいな格好になった。ヤバい、これはダサすぎる。
周囲を確認。よし、ちょうど誰もいなかった。ここが踊り場でよかった。廊下に面してたら絶対見られてたよ。
ほっとして体を起こしたら、手の平がじんじんしてきた。えっ、ウソ、血がにじんでるよ。左手の親指のつけ根、皮膚がめくれてる。自覚したら、すっごく痛くなってきた。
「……遠野のせいだ」
遠野が痛い目みるなんて縁起でもないこと言うから。わりと俺もドジだけどさ、これは遠野が悪いでしょ。うらめしく傷をなぞってると、にじんでた血が集まってぷっくりと大きな玉になってきた。このままだとしたたり落ちそう。保健室、行ったほうがいいかも。
「失礼しまーす」
三回ノックをして扉を開けると、注射するときの匂いがした。消毒用のアルコールの匂いって、みんなのトラウマだよね。
初めて入った保健室に先生は見当たらなくて、女の子が一人、窓ふきをしていた。雑巾を片手に、キョトンとした顔でこちらを振り返ってる。うわ、フチなし眼鏡におさげって、いつの時代の女学生?スカートも膝が隠れる丈だし、こんな古風な子は初めて見たよ。なんで昼休みに掃除なんてしてるんだろ。
おさげちゃんと無言で見つめ合う。なんだろう、この時間。
「キミは保健委員さん、かな?」
「はっ!そ、そうです!」
やっと動き出したおさげちゃんは、息することを忘れてたみたい。そんなに驚いちゃうくらい、俺に見とれてたのかな?
「ケガしちゃったんだけど……」
手の平を見せようとしたら、傷にたまっていた血が、つうっと流れて手首を伝っていった。うえ~、気持ち悪い。
「ひゃあ!は、はははやくてあてを!しょ、しょうどく!」
雑巾を放り出して駆け寄ってきたかと思えば「手を洗わなきゃ!」と洗面台へ向かい、蛇口をひねったら「あ!座ってください、そこのイスに!」と俺を見て、よそ見したせいで石鹸を床に取り落として絶望して、なんて忙しい子なの、おさげちゃん。
「落ち着いて。慌てなくて大丈夫だから」
俺は苦笑いをこらえながら、部屋の真ん中にある長机の上に置いてあったティッシュで勝手に血をふかせてもらった。洗面台の隣に消毒セットの載ったステンレスワゴンがある。おさげちゃんは頼りなさそうだし、もう自分でやっちゃおうかな。ケガしたのは利き手じゃないし。
「ここの道具、使わせてもらってもいい?」
がんばって手を洗ってるおさげちゃんに確認してみると、ガーン!って効果音が聞こえてきた。あきらかに傷ついてる。私がちゃんとできないから見放されちゃったんだ、保健委員なのに役立たずだよ、ふえぇん……って心の声が聞こえてくる。分かりやすい。
そっか。俺のために一生懸命になってくれてるんだから、その気持ちを無下にしちゃダメだったね。とくに女の子の親切は宝物だもん。俺が間違ってたよ。
「……ごめん。やっぱり自分じゃうまくできないかも。キミにお願いしたいな」
ワゴンに備え付けのイスに座って傷を差し出すと、おさげちゃんはうつむいていた顔をあげた。「ゆっくりでいいからね」と笑いかけると、きゅうっと泣きそうな顔で「ありがとうございます」と言った。
可愛いなぁ。地味だし、特別に綺麗ってワケじゃないんだけど、仕草とか雰囲気とか、なんか可愛い。ふんわりしてて、マイナスイオンが出てそう。今まで付き合ってきた女の子とは違うタイプ。
「痛かったら、ごめんなさい」
そう断って消毒を始めたおさげちゃんの手つきは、ぎこちないけど丁寧で、微笑ましくなった。こういうのは人柄が出るもんね。とってもいい子なんだろうな。最終的に包帯まで巻かれて、大袈裟なケガ人に仕立て上げられたのもご愛敬。
「ありがとう。助かったよ」
「いえ、うまくできなくて、すみません……あっ、そうだ!利用者記録に記入をお願いします!」
なるほど、使いっぱなしってワケにはいかないんだね。手垢がついてよれたノートとペンを受け取って、必要事項の欄を埋めていく。名前、クラス、ケガの内容……んっ?
「この、『担当者』って?」
「はい、そこは私の名前を書いてください。ももせって言います」
オッケー、おさげちゃんは、ももせちゃんっていうのね。
「……えっ?」
「あ、漢字ですか?数字の百に、瀬戸内海の瀬です」
いや、教えてくれなくても分かるけどね、百瀬って。
まさか。
でも、こんな苗字めったに被んないでしょ。
この子、だったんだ。
遠野の言う通り、俺が思ってるのとぜんぜん違ったよ。王子にかすりもしてない。でも、なんでだろう。がっかりするどころか、ムチャクチャ興味がわいてくるんですけど!
「ねぇ。百瀬ちゃんは、いつも保健室にいるの?」
「いいえ、今月だけです。当番なので。お昼休みとか、放課後に少しだけいます」
教室にいなかった理由はこれだったんだね。よし、そうと分かったら毎日会いに来るよ!と、決意したところで予鈴が鳴った。もっと話したかったんだけどしかたない、教室に戻らないと。
「はい、ノート書けたよ。じゃあ、またね!」
無邪気に手を振ってみせると、「おだいじに」って控えめに手を振り返してくれた。やっぱり可愛いね。
楽しくてニヤニヤが止まらない。
さて、これからどうしようか?
さっきの目、冷たかったな。
自分の態度は棚に上げて、また密かに傷つく。可愛げのない女だって自覚はあるけれど、今更しおらしく振る舞うなんてできないし、したくもない。他人に媚びを売るような真似が、私は何より嫌いだから。じゃあ、なんであんな、女に媚びた男を好きなのかって聞かれたら、ぐうの音も出ないのだけれど。下手に幼い頃を知っているから、どうしても思い出がちらついて期待してしまう。あのころの隼くんは、もうどこにもいないのに。
ダメだ。教室の前なんて人目のある場所で言い合ってしまった手前、落ち込んでいる顔をしていたら周囲に誤解されてしまう。私の方が正しいのだから、平気な顔をしていないと。
気を紛らわすために本でも読もうと席に着いたら、クラスメイトの女の子が二人、声をかけてきた。
「遠野さん、さっき秋山君と仲良さそうにしゃべってたよね」
「知り合いなの?同じ中学だったとか?」
興味津々、輝く瞳がまぶしい。あの男は顔が良くて物腰が柔らかいから、こんなふうに恋に恋する乙女たちの格好の標的になりやすい。
「……ただの腐れ縁。仲が良いわけじゃないの」
苦笑いで必要最低限の事実だけを答える。これ以上の情報は彼女たちの好奇心を満たすだけじゃなく、もれなく失望もさせてしまう。
ごめんね、とこちらから話を打ち切ると、二人は残念そうに去っていった。彼女たちが、ちょっと羨ましい。夢をみていられるのは、幸せなことだから。
幼馴染みというものが、こんなにも業の深いものだと知っていたら、はじめから近づいたりしなかった。いくらいじめられて泣いていたって無視したし、慰めてあげることもしなかった。どんなに良心が痛んでも、今の私が抱える痛みに比べたら、そんなのどうってことないって、あの頃の私に教えてあげたい。
初めて隼くんから遊びの誘いを断られたのは、小学三年生になった春のことだった。
忘れもしない。「いまから新しいクラスの女の子たちと出かけるんだ」と屈託のない笑顔を向けられて、どれほどショックを受けたことか。
住んでいるアパートが隣同士で、お互い一人っ子だったこともあって、物心ついた頃から一緒にいるのが当たり前の存在だった。女の子みたいに小柄で可愛い隼くんは危なっかしくて、守ってあげなきゃ、って正義感がむくむくとわき上がってくる。私はお姫様を護る騎士のように振る舞った。まっすぐな瞳で頼られるのが何より嬉しかった。
隼くんは、とても臆病だった。人の負の感情に敏感で、察知するとすぐに泣いてしまう。でも、それは人のことをよく見ていて、気づくことができるってこと。だから、そのアンテナが悪い感情だけじゃなく良い感情にも向くように――こんなことまで幼い私の考えが及んでいたわけではなかったけれど、いつだって笑っていてほしくて――とにかく私は褒めた。隼くんは優しいね、って。
たぶん、それが失敗だった。
優しいと褒められる。褒められると嬉しい。だから優しくならなくちゃ。そう思ったのだろう隼くんは、怯えながらも誰にでも優しく接するように頑張っていた。
隼くんは可愛い。一度その魅力を知ってしまえば、みんなが隼くんを好きになって、仲良くなりたがる。隼くんは、それが嬉しくてしかたない様子だった。
優しいことは、良いことだ。でも、求められるままに答えようとするその健気さは、気がつけば、私の目にはただ媚びを売っているようにしか見えなくなっていた。隼くんの根っからの素直さが悪い方に転がってしまったのだと思う。
愛されるお姫様は、みんなと楽しく過ごすようになって、守られていた頃のことなんて忘れてしまったみたいだ。私は独りぼっちになった。でも、私は騎士だ。どんなことがあっても、そばで守り続けるのが使命。
私は隼くんを構い続けた。愛されるために甘い言葉ばかりを吐く彼の姿勢を、ときには厳しく叱ることもあった。自分を軽んじてほしくなかったから。すると、隼くんはだんだん私を避けるようになった。愛想笑いでごまかされるうちは、まだよかった。ずっと親しんできた可愛い顔が、次第に表情を失くしていって、ついに嫌悪を隠さなくなって。
「彼女が嫌がるから、あんまり話しかけないで」
とうとう突き放されてしまった、小学六年生の夏。すげなくされたことよりも、彼女、という単語が私を打ちのめした。思いがけず襲ってきた激しい胸の痛み。その意味を考えて、初めて自分が恋をしていたのだと自覚した。
耳年増なクラスメイトの女子に聞けば、そのときの彼女で五、六人目、初めて彼女ができたのは四年生のときだったらしい。
「私、てっきり遠野さんも元カノで、秋山君のこと諦めきれなくて追いかけてるんだと思ってた。まさか何も知らなかったとは思わなくて……誤解しててゴメンね」
そんなことを言われても、驚きすぎて悲しむこともできなかった。ただ、体が冷たくなって、何も考えられなくて。しばらくご飯が喉を通らずに、両親がずいぶん心配していた気がする。
これを機に、私は彼を名前で呼ぶことをやめた。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。文庫本は最初に開いたページのまま、一行も読み進めることができなかった。こんな調子じゃいつ読み終わるか分からない。ため息をついて、そっと本を閉じた。授業には集中しないといけない。
五限目は現国。担当の先生が入室してきて、生徒が整然と着席する教室を見渡すと首をかしげた。
「百瀬さんは欠席?」
その名前に、空気が張り詰める。彼女が百瀬かなでの妹だと判明したときから、みんな彼女には否応なく反応してしまうのだ。
「四時限目までは、ちゃんといましたよ」
「今月は保健委員の当番らしいので、その関係で遅れてるのかもしれません」
「たしかに、さっき保健室で窓ふきしてる百瀬さんを見かけました」
次から次へと報告があがる。特に彼女と親しくもない人間たちがこれだけの情報を持っているという事実を、きっと誰も疑問に思っていない。
ざわついているところへ、話題のその人が息を切らして駆けこんできた。
「す、すみません!保健委員の仕事が長引いて……、本当にすみません!」
一転して静まり返った空間に、やたらと恐縮した声が響き渡る。みんなが彼女の一挙手一投足を注視している。本人は気づいていないようだけれど。
「あら、お疲れ様。委員会じゃ仕方ないわね。さあ、席に着いて」
先生も、たぶん彼女を通して百瀬かなでを見ている。普段はこんなに甘い声を出す女性ではない。
滞りなく授業が始まる。
このクラスは異様だ。
最初の自己紹介の時点で、一度はその苗字に注目が集まった。百瀬という苗字は、そうありふれたものじゃない。でも名乗った彼女を見れば、おとなしそうで、慎ましやかで、同じ苗字を持つきらびやかな王子とは似ても似つかない。王子には子役だった兄以外に兄妹がいるとは聞いたことがないし、彼女自身からも特に言及はなかったから、きっと何の関係もない同姓なのだろうと、すぐに忘れ去られた。
彼女は、あまりクラスに馴染めていないことさえ誰にも気づかれないほどに控えめだった。そういう子を見ると生来の正義感がうずく。移動教室のとき、授業でグループを作るとき、お弁当を食べるとき、私は何かにつけ彼女を気にかけた。
声をかけると、決まって彼女はとても驚く。そして少し申し訳なさそうに微笑んでこちらの善意を受け入れてくれる。悲壮感はない。独りぼっちでも、どこか幸せそうにすら見える不思議な子。だから私は彼女との距離を測りかねていた。
ところが、ゴールデンウィークが明けてすぐに、王子がA組へやって来てから事態は一変する。
彼女が、あの王子と、親しげに話していた。初めて見るような柔らかい笑顔で。その様子を、私を含めてその場に居合わせた全員が呆然と眺めていた。
ひとしきり談笑した王子は、近くで固まっていた女子のグループに声をかけた。
「あのね、あいりはオレの妹なんだ。似てないけどオレたち双子なの。ちょっと抜けてるとこがあるからさ、あいりのことよろしくね」
よく通る声は、このクラス全員の耳に届く。どれくらいの人間が気づいただろう。それがお願いではなく、牽制だったのだと。
私は、もとより百瀬かなでというタレントを快く思っていなかった。少数派だって自覚はあるから、あえて口にしたことはなかったけれど。
だって、彼は人に媚びを売る天才だ。どことなく、ニコニコしていれば周りが自分の思い通りになると思っている秋山と似ている。だから進学先に王子がいると聞いても、私は浮かれるどころか迷惑だとすら思ったのだ。
そんな彼と、彼女が、双子の兄妹だった。
結果的に、あの時点での牽制は正解だった。このクラスには子どもっぽいいじめの気配があって、その矛先が彼女に向く可能性は大いにあったのだ。でも彼女が王子の妹であると周知されたことで、いじめのターゲットから彼女は完全に外された。全てを見越しての行動だったとしたら、なんて恐ろしい男だろう。そう思うと同時に、自分の価値を振りかざしてでも妹を守ろうとする人間らしさに、彼を見直しもした。
それから、彼女がクラスだけでなく学校中で特別な存在となったのは言うまでもない。彼女の周囲は、純粋な善意や、好奇心、はたまた下心であふれかえった。けれど私がそうだったように、近づこうとする誰もが彼女の持つ独特の雰囲気に飲まれ、なかなか踏みこめない。その欲求不満が、観察という形となって彼女を取り巻いている、というのが現状だ。
普通じゃない。でも、渦中の本人がなんにも気づかずマイペースで幸せそうなので、今のところ問題はない。
私が最も危険視しているのは、誰でもない、秋山だ。
すっかり女たらしになってしまったあの男が、王子の妹に食いつかないはずがない。案の定、最近やたらと目を輝かせてA組のあたりをうろつき始めたのだから、分かりやすいったらない。さいわい彼女は今、委員会の仕事で教室を離れることが多いから、鉢合わせせずに済んでいる。それでも、何も知らずに彼女を探す浅ましい姿が目に余って、今日はつい首をつっこんでしまった。
傷つくことは、分かりきっていたはずなのに。
私が初めて「秋山」と呼んだとき、彼は眉をひそめて「遠野は可愛くないね」と言った。恋人がいる彼の立場を考えて一線を引いたのに、何が気に食わなかったのだろう。それからというもの、顔を合わせればケンカになって、「可愛くない」と突き放されるのが習慣になってしまった。
それでも、私はまだ信じていた。「円香ちゃん」と呼んで慕ってくれていた隼くんのことを。信じていれば、必ずもとの幼馴染みに戻れると。
望みが打ち砕かれたのは、中学二年生の秋。学校の女子トイレで偶然、会話を耳にした。
「今月、生理が遅れてるんだよね」
「え、ヤバくない?ゴムしてなかったの?」
「してるよー。秋山君は、そのへんちゃんとしてるから」
よく分からなかった。私は同年代の子に比べてあまりに無知だったらしい。ただ、手の震えが止まらないくらいには感じ取った。吐き気をもよおすほどの嫌悪とか、立っていられないほどの絶望とか。
男女が付き合うということがどういうことなのか、おそるおそる調べて正しく理解したとき、自分が惨めでやりきれなかった。学校では教えてくれなかった生々しいその行為は、恥ずかしくて、気持ち悪くて、そんなの絶対にできないと思った――本当に好きな人とじゃなければ。無意識のうちに、私は彼にすべて捧げることを望んでいた。
でも、望みはかなわない。さんざん浴びせられてきた「可愛くない」の、本当の意味が分かってしまった。私の好きな人は、私の知らないところで、私の知らない人と、私の知らないことをしていた。
私は、選ばれなかったのだ。
これ以上傷ついたら息が止まってしまうかもしれない。いつも思う。恐くてしかたない。それなのに、どんなに傷ついても息は止まってくれないし、私は秋山隼という人間を断ち切ることができない。距離を取りたいのに、何かしら理由をつけて関わろうとしてしまう。同じ高校まで追いかけてきてしまって、今だって、クラスメイトを護りたいって正義感にかこつけて会話ができるのを心のどこかで喜んでいる。罵倒されてでも、その目に映してもらえる限り追いかけたいと思ってしまっている。
きっと、ずいぶん前から私は正常な判断力を失っている。まともだったら、こんなに傷ついてもまだ思い続けられるはずがない。
諦めたい。楽になりたい。それと同じくらい、好きで好きでどうしようもない。
こんな毎日が、あとどれくらい続いていくのだろう。
私の心は、いつまで耐えていられるのだろう。
もしかしたら、私はいじめられてるのかもしれない。
「あいりちゃーん。ガーゼ変えてくださーい」
すっかり覚えてしまった声に、ビクッとした。お昼休み、ニコニコと保健室に入ってきたこの男の子は、私が保健委員として初めて担当した利用者さん。先週ケガの手当てをしてあげてから、どうしてかわからないけど毎日ガーゼを取りかえに来てる。もう傷はほとんど治ってるのに。
「あいりちゃんってさ、休みの日は何してるの?」
そして、処置が終わってもなかなか帰ってくれない。お昼休みが終わるまで、こうしてずっと私に話しかけてくる。他に体調が悪い人やケガをした人がいたら仕事を邪魔してくることはないんだけど、そういうときはおとなしく座ってじーっとこっちを見てる。いつも笑顔なのが逆に恐い。恐いのに、今日は私たち以外に誰もいないから逃げられない。
「ねぇねぇ、教えて」
「うぅ……最近は、晴れたらお布団を干したり、お掃除したりしてます」
「え、あいりちゃん主婦なの?」
言われてみれば、そうかもしれない。
「一人暮らしじゃないんでしょ?お母さんは仕事が忙しい人なんだ?」
「お母さんはお父さんと一緒に外国に行ってて」
「外国?いーなぁ、海外旅行」
「違います、あの、移住したので」
「はっ?移住!?初耳なんだけど」
公表してないんじゃないの、それ。と、慌てた様子で聞かれて首をかしげる。誰にも言っちゃダメ、なんて言われてないけどなぁ。
「わかった。あいりちゃんと話すことは、ぜんぶ俺の心の中だけに留めておくから」
「はぁ、ありがとうございます……?」
悪い人じゃないみたいだけど。この人が何をしたいのか、よくわからない。
ふと、にぎやかな笑い声に誘われて窓の外を見てみたら、渡り廊下をキレイな黒髪の女の子が歩いてた。まっすぐサラサラでうらやましいな。私は少しクセ毛だから……あれ?あの子はたしか同じクラスの。
「遠野さんだ」
「えっ!?」
男の子が急に立ち上がって、びっくりした。
「どこ!?」
すごくあせった顔で聞いてくるから、外を指さす。あ、遠野さん、こっちに来てる。
「ヤバい、隠れなきゃ!」
具合が悪い人のためのベッドに飛び乗った男の子は、急いで目隠し用のカーテンを閉め切ってしまった。あぁ、上靴は脱がなきゃダメなのに、なんてことを!あとでシーツを変えないと。
目を白黒させていたら、ノックが聞こえてドアが開いた。
「失礼します。お仕事お疲れ様、百瀬さん」
凛とした声の遠野さんは、スラリとした美人さん。たまに話しかけてくれる優しい人。だけど、いつもキリッとしてて、面と向かうと少し緊張してしまう。
「どどどうも、です」
ギクシャクしてる私をとくに気にする様子もなく、遠野さんはたずねてきた。
「突然だけど、秋山隼がどこにいるか知らない?」
「あきやま……?」
がんばって記憶をたどってみる。同じクラスにはいないし、うーん。
「聞いたことないです。どんな人ですか?」
探してるなら手伝ったほうがいいのかな。心配になったけど、遠野さんは少し考えて。
「知らないならいいの。お邪魔してごめんね」
と、あっさり出て行ってしまった。なんだったんだろう。
不思議に思ってると、カーテンが開いて、男の子が胸をなでおろしながら出てきた。
「あっぶなかったぁ。あいりちゃん、マジでナイスフォローだったよ。ありがとう!」
私、感謝されるようなことしてないけど……と思う間もなく、閉まったばかりのドアが勢いよく開いた。
「やっぱりここにいた、秋山!」
「うわっ!?なんで、ちょっと待って……!」
出て行ったはずの遠野さんがまた現れて、ベッドの上にいる男の子にずんずん迫っていく。私は、ただぽかんとしてその様子を見ていた。