さて、オレにはやらねばならないことがある。自分の気持ちに正直になったら、と約束していたのだ。

あんなに肌身離さず首からぶら下げていたネックレスが見当たらない。駿河との距離がやたらと近い。ということは、そういうことだろう。

「よかったな」

寝る前に、こっそり部屋をたずねて例のノートを返すと、あいりは気まずそうに、照れくさそうに、それを受け取った。
あのときの約束は果たした。でも、これで終わりじゃない。

「捨てるのか、それ」

うなずくなら、慰めて手伝ってやるつもりだった。
けれど、あいりは瞳を揺らしたあと、「やっぱりとっておく」とはにかんだ。それなら考えがある。

「あのさ。お前、作家になる気はねぇの?」

「作家……?」

「昔からずっと欠かさず書いてるだろ、それ」

「や、やだな。バレてたんだ」

ノートを抱き込んで隠そうとする、そんな負い目は必要ない。

「調子良いときも悪いときも、書く意欲が続くってのは、それだけで才能だよ。それに、あいりは日記のつもりで書いてるみたいだけど、それ、読み物として充分しっかりできてる。だからネットであっという間に人気が出たんだ。今でも続きを読みたいってコメントがたくさん届いてるの、知ってるか?」

ぽかんとする間抜け面の頬を、柔くつまんでやる。

「向いてるっつってんの。やるんだったらオレはいくらでも協力する。あとは、あいりの気持ちひとつだ」

「私の、気持ち?」

「おう。ちなみに、オレは芸大に行くって決めたぞ。本格的に絵の勉強をしてみたい」

「えっ、じゃあお仕事はやめちゃうの?」

「やめないよ。表現する仕事は好きだからな。仕事は絵に生かせるし、絵も仕事に生かせる。両立は難しいって言われても関係ない、オレはオレのやりたいことをする」

あいりは自分の意思で行動するのが苦手だ。それはオレや駿河が必要以上に甘やかしてしまったせいだと、薄々気づいていたのに、どうせオレたちが守ってやれるから、なんて高をくくっていた。あいりがぽっと出の男に流されて付き合ってしまった原因は、オレたちにあったのだと思う。
だから示したかった。思いのままに、どんな道を選んでもいいのだと。

「あいりは、どうする?」

戸惑いが手に取るように伝わってくる。

「……できるのかな、私に」

「それは、やってみて確かめればいいんじゃね?」

答えを探すその瞳の奥に、星のようなきらめきが見えた。
たぶん、あいりは選ぶだろう。自分のやりたいことを。

それから、忘れてはいけないことが、もうひとつ。

「お前は近々、実家に戻れ」

「えっ?なんで?」

そう言うと思った。たぶん、あいりは駿河の、というか男の危険性について何ひとつ理解してない。まったく、オレが責任を持ってしっかり教育してやらないと。

「駿河がただの保護者じゃなくなったんだから、もう今までのようにはいられないだろ。言っとくけど、両思いだったとしても現状で駿河がお前に何かしたら、逮捕だってあり得るんだからな。それに、これからしばらくはマリアのサポート役が必要なんじゃないか?」

「なるほど……でも、かなでは?」

「オレは家事育児に関して何の戦力にもならないから、ここに残る。ここからの方が事務所とかスタジオとかのアクセスもいいし」

「そっか。うん、そうだね。かなでの言う通りだ」

のほほんとした、この素直さが不安だ。あいりにそれ相応の知識が身について覚悟が決まるまでは、別々に暮らしたほうが二人のためにもいいだろう。

「じゃあ、マリアが退院する前に引っ越しできるように、少しずつでも荷物まとめとけよ」

「わかった。……あ、ちょっと待って」

「ん?」

「ほんとに、いろいろありがとう。あのときは疑ってごめんね」

「おう。いいってことよ」

いつもと変わらない屈託のない笑顔だったから、つい当たり前のように流してしまった。あいりの部屋を後にして、はたと思い返す。今のは、ノートや小説サイトの件がオレの仕業でないと知っているような口ぶりではなかったか。
オレは駿河の秘密を墓場まで持って行ってやると約束した。だからこれ以上追及する気はないけれど。
もし全てを分かった上で駿河を受け入れたのだとしたら、あいりは、オレが思っているよりずっとたくましいヤツなのかもしれない。