幾度目かの揺れの後、
唐突に天井が崩れた。
差し込む月影。
「あ!見て。光!」
カスミはそう叫ぶと駆け出そうとした。
別にこの危機的状況から助かった訳ではないけれど、
お互いの輪郭がかろうじて判るしかない薄闇の中、
差し込んだ明かりは天の助けのようだった。
「走るなよ。危ないぞ」
ヒサヤが腕をとって引き留める。
けれど、ヒサヤの力強い大きな手のひらは、それに反して優しく柔らかい。
それがなんだかむずがゆくて、
「はい」
カスミは素直に従う。
2人が出会ったのは小1時間ほど前なのだが、
もう随分とこうして手を繋いで歩いているような気がする。
心細さで繋いでいたはずの手は、いつの間にか信頼と名を変えていて、
2人は手と手を取り合って共に光の下を目指した。
時折建物の崩落で地面が揺れる。
怖さのあまり掴む力が上がったのだろうか、
「ここは大丈夫。
はぐれないで」
ヒサヤが励ますように言った。
光に近付くにつれ足元に瓦礫が転がるようになり、
ヒサヤは天井ばかりを気にしている。
カスミはいてもたってもいられず、手をほどいて駆け出した。
「カスミさん!!」
ヒサヤが慌ててカスミを呼ぶが、
「大丈夫!」
カスミは瓦礫を踏みしめて、月の下へと躍り出た。
丸く抜け落ちた天井から差し込む光は、舞う粉塵で軌跡が浮かび上がり、まるで光の柱だ。
崩れ落ちた天井が積み重なった丘を登り、全身に月光を浴びる。
喜びに上気した顔で小さく一回転。
清冽な月明かりはカスミを祝福するように絶え間なく降り注ぐ。
背後から瓦礫を踏む音がした。
「月よ。ヒサヤさん」
そう言いながら振り向いたカスミの目に最初に飛び込んだのは、
ヒサヤの見開かれた両目だった。
その瞳が現しているのは驚愕と動揺。
ヒサヤはカスミを恐れのような目で見ている。
―どうして?!
驚いたカスミはようやくその事実に気付いた。
ヒサヤの黒い瞳をはめた顔。
その黄味と赤味をちりばめたペールオレンジの肌の色に。
―あぁ。
この人の瞳に映る私は
こんなにも鮮やかな緑色なのに。
目の前のその光景を
美しい
そう思ってしまった。
自分はどうかしてしまったのではないか。
彼女は、
彼女はこんなにも自分たちと違うのに。
透けそうな滑らかな緑色の肌。
柔らかく跳ねる短い髪。
腕や肩をむき出しにした丈の短いワンピースは薄く、
月の光を通して彼女の体のシルエットが影絵のように浮かび上がる。
その容姿は間違いなく、
憎むべき貴族たちのソレなのに。
彼女は、
貴族の娘の彼女は、
透き通った笑顔で月明かりの下で幻のように舞った。
ヒサヤが彼女、カスミと出会ったのは恐ろしいほどの偶然だった。
爆薬のセットが上手くいかなかったと、気が付いた時には既に遅かった。
トランシーバーからの謝罪の声は意味をなさない。
トランシーバーに向かって怒る仲間の叫びも。
貴族達が使うターミナル駅を爆破する計画は、同族には被害が出ないようにしなければならない。
慎重にチームもルートも練ったつもりだったが、1チームのミスだけで大きな穴が出た。
このままでは駅舎がどこに向かって崩れるか分からない。
―罵りも後悔も、今はまだ早い。
「予備一人一個ずつあるよな」
そう言いながらヒサヤは他人のバックパックも漁って爆薬を回収していく。
「ヒサヤ?」
「俺が行く」
手早くバックパックに詰め直すと駅舎の建築図面と路線図、トランシーバーを奪う。
「巻き込まれるぞ!」
トランシーバーを持った手の形のまま、カズトが止める。
「死ぬかよ。下見にも来てんだ、俺が一番分かる」
そう言うヒサヤの目が真っすぐなのを見て、
「こいつも持ってけ」
タカが水と固形食糧を渡す。
「サンキュ」
レッグポーチに詰め込んで、水とトランシーバーを腰につるす。
「ミドリムシ多めの一番良い奴だ」
ヒサヤが顔を上げるとタカは笑って、
「何日かかっても良い。生きて帰って来い」
ヒサヤは頷いて駆け出した。
爆薬をセットした後、外へ逃げる時間はもうなかった。
建物の崩壊から逃れるために下へ下へ。
メトロ辺りにまで降りたその時、爆破が開始した。
駆けても、駆けても、間に合わない。
崩壊する建物の振動がヒサヤを襲った。
次に目覚めた時、ヒサヤはしばらく状況が思い出せなかった。
暗さに目が慣れると、線路が見えた。
サイドに埋め込まれた非常灯が光ってはいるのだが、電圧が低いのか何とも儚く仄かな明かりだ。
体を確認すれば、所々痛むものの打ち身ばかりで問題はなさそうだ。
振りかえれば半壊した階段が見える。
あそこから落ちて良く生きていたものだと深く息を吐く。
バックパックは破れ、中身はもう無い。
要らない物を捨て身軽になる。ここから先はサバイバルだ。
「おし」
小さく気合いを入れる。
それに答えるように、
「あの誰かいるのですか?」
急に声が上がった。
目を凝らせば遠くに動く影がある。
声の感じは 女性。
馬鹿な。
こんな夜のメトロになんで人が?
急いで身の回りの捨てた物を瓦礫に埋め込む。
組織に通じるものは持っていないにしろ、用心に越したことはない。
「大丈夫か?」
影に向かって声をかける。
「あ、はい!」
女性は嬉しそうにそう答え、影が動く。
「きゃ」
転ぶ。
ヒサヤは慌てて、
「そっち行くから!動かないで!」
声の感じからすれば、一般のまだ年若い娘だろう。
それこそなんでここにいるのか分からない。
「大丈夫?」
近づいて声をかけると、娘はえへへと笑って、
「転んじゃいました」
答えになってない答えだが、声の調子では無事なようだ。
「何が起きたんですか?」
娘の質問にどうしたものかと迷いながら、
「階段を見る限り…上の建物が崩れたみたいだ」
娘は息をのむ。
それはそうだろう。
それが事実なら―まぁ、その通りなのだが―生き埋めだ。
「君はなんでここに?」
せっかくなので質問を返す。
娘はもじもじと動いた後、ためらいがちに答える。
「……家出…です」
なるほど、家出をして駅に潜り込んだのか。
見捨てるわけにはいかないな。
「とりあえず、ここを出よう」
「出れるんですか」
見えないなら路線図は意味がないなと思いながら、
「隣の駅まで行けば」
娘を立たせようとすると、鈍い震動が襲った。
建物が崩れた音だろう。
掴んだ娘の手が震えている。
「大丈夫。地下は強いから。行こう」
声をかけて立たせてやる。
「カスミ」
娘が急にそう言った。
「カスミです。私の名前」
「あぁ」
ヒサヤは少し遅れて
「俺はヒサヤ」
そう名乗る。
「宜しくお願いします。ヒサヤさん」
カスミが少し震えながらも明るい声で言う。
暗く、足もとも悪い。そして揺れと小規模の崩落。
怖いだろう。
正直ヒサヤも怖かった。
「大丈夫。絶対助かる」
それは自分に言う言葉でもあった。
繋いだ手の温もりは希望の灯りのような気がした。
そんなカスミが、葉緑体を持つ貴族だった事に打ちのめされる。
ヒサヤは…革命を掲げるテロリスト…
―何故?
何故なんだ。
「月よ。ヒサヤさん」
振りむいたカスミの笑顔が曇る。
その表情を曇らせたのは自分の表情だと、ヒサヤは気付かない。
ヒサヤの心の中は疑問符の嵐だ。