「待て待て」

純真無垢で真っ直ぐな少女の瞳に捕らえられ、俺は不覚にも狼狽した。
我々のような邪なる存在にとって、いつの時代も汚れなき乙女の心は大敵であるのだから致し方あるまい。

「この山の主は確かにこの俺だが──」

常日頃からここに棲んでいるわけではないが、この頭山も俺の管轄地であるのは確かだ。
だから今日も所用あってここに来たのだし、管理のためにしばしば訪れる場所ではある。

しかし。

「幼子を──いや、そもそも人間をさらったことなど、俺にはないぞ」

いくら記憶を探ろうとも、心当たりがさっぱりなかった。

俺がこの山で常日頃行っていることは、この鈴華のように山奥まで迷い込んできた不埒な輩を散々に驚かせて追い払うことくらいであり、面倒な手続きの必要な天狗さらいなど実行したことはない。

人間の目からは無秩序そうに見えるかもしれぬが、我々天狗の社会には厳格なる掟というものが色々存在しているのである。

「残念だがその幼なじみ、この俺の仕業ではないな」

「そんな……」

落胆の色を浮かべて娘が沈黙した。

「気が済んだならただちに山を去れ。この先は人が立ち入っては無事に戻れぬ険しい山だ」

脅して逃げ帰るよう仕向ける正統派の手段からは大きく逸れた、説得などという邪道に頼ることとなったが、ともかく俺はこの娘に対しても天狗の職務を遂行することにする。

「今からならば日が暮れる前に山を下りることができる。何なら俺が麓まで送ってやろう」

我ながら何と親切で寛大な心を持った天狗だろうかと思いながら口にした俺の提案を、

「いいえ、帰りませぬ」

信じがたいことに鈴華は首を振って拒否した。