明と二人で岩場を登る。当然足元はゴツゴツと凹凸があるので歩きづらかった。

「足元、気をつけろよ」

明がそう言ってあたしの手を引いてくれる。
その手はとても温かく、離したくないと思った。
10分くらいも登ると、岬の中腹地帯とはいかないが、人が座れるぐらいには地面が平坦になっている地帯に着いた。
明が「ここに座ろうぜ」と言ったので、あたし達は並んで座った。二人の手は繋いだままだった。

「ここ、俺が見つけた絶好の場所なんだ。見てみ?」

ここに来るまで、足元がおぼつかなく下ばかり見ていたあたしであったが、あまりに明が得意そうに言うので、そこからの景色を見た。
あたしはあっと声を上げた。

厚く覆われた雲の隙間から、夕陽が輝いて海を紅く染めている。
海だけではなくて、辺りの数々の岩までが紅い。
昼間の風景も綺麗だが、夕暮れの海もまた違う美しさがあると思った。

「綺麗…」

「だろ?この時期だと、ここから夕陽が一番良く見えるわけよ」

あたしが呟くと、明がまた得意そうに言った。
あたしは中学生の時に読んだ少女漫画で、海に遊びに来たヒロインと、お相手の男の子の話を思い出した。
せっかく海水浴なのに、些細な事から二人は気まずくなり、ある時男の子がヒロインを夕陽が見える絶好スポットに連れ出し、あまりの風景の美しさにヒロインは感動。二人は無事仲直りしましたとさ−。
今なんてまさに、その少女漫画通りのベタベタなシチュエーションではないか、とあたしは一人笑った。

「元気出た?」

明があたしを見て笑った。

「うん…。心配してくれて、ありがとう」

あたしも真っ直ぐに明を見つめ返して答える。

「ごめんな、知らない奴ばかりでやっぱ気疲れしたろ?無理に来てもらって、ごめんな」

「そ、そんな事ないよ。確かに緊張したけどさ、みんないい人だし、面白いし」

やっぱり明は、上手に場に溶け込めないあたしを心配してくれたんだ。
余計な気を遣わせてしまって申し訳ないが、素直に嬉しかった。

「俺も、楽しかった。杏子は聞いてなかったと思うけど、あいつらみんな杏子の事可愛いって言ってたんだ。俺、思う存分ノロケてやったわ」

「そんな…」

その誉め殺しに堪らずあたしが顔を背けると、明がきつく手を握った。思わず、あたしは明を見る。

「明…」

「目を閉じて」

明が優しく言った。
その真意を汲み取り、あたしはゆっくり目を閉じた。心持ち顔を上向ける。
自分の頬と体が火照るのを感じていた。
そして−…。

ゆっくりと、柔らかいものが、あたしの唇に重なった。
ああ、あたしのファーストキス。こんなに幸せな形で奪われるなんて。
こんなに大好きな人と。
確かにベタなシチュエーションではあるが、それもまた良かった。
永遠と思われた時間だったが、それは呆気なく終わった。あたしの息が続かなく、思わず明の唇から離してしまったからだ。
鼻から呼吸をすればいいのだが、明に鼻息の音を聞かれるのは恥ずかしい。
世間の恋人達は、キスをしている間は息づきをどうしているんだろう。
恋愛初心者は、どんな些細な事でも頭を抱えて悩んでしまうのだ。

「杏子、すっげー好き俺」

明が優しく微笑みながら言った。あたしも「うん。あたしも大好き」と答える。
そして互いの唇の味に酔いしれた二人は笑い合い、どちらともなく抱き締め合う。
明の暑い胸板。
明の手のぬくもり。
明の唇の柔らかさ。
あたしは、本当に、明が大好き−…。

羞恥と喜びに全身を震わせながら、このまま時間が止まってしまえばいい−…。
そう思ったその時だった。

「杏子…?」

下の方で、あたしを呼ぶ聞き慣れた声が聞こえた。
それにあたし達は驚き、お互いの体を離しすと声のした方を見た。
すると千晶が、何やら気まずそうな顔をして、こちらを見上げていた。
彼女と目が合う。
あたしと明がキスしているのを、見られてしまったかもしれない−。
そう思うと、あたしは体から血の気が引きそうだった。

「…慎さんが、そろそろ帰るから、二人を探してきてくれって…。それで、二人がここへ登ってるのが見えたから…」

千晶があたしから視線を逸らすと、なんだか親にイタズラを見つかって言い訳をする子供の様な表情を浮かべた。

「そっか。もうこんな時間だもんな。じゃあ戻るか。危ないから、杏子も千晶ちゃんの手引いてあげな」

明が笑って言った。
あたしの片手を取り、あたしはもう一方の手で千晶の手を引きながら岩場を降りた。
千晶の手は、妙に冷たかった。
砂浜に着くと、明はあたしの手を離し「わり、片付け手伝ってくる」と言い残すと、足早にフェニックスのメンバーがいるところへ行ってしまった。
あたしと千晶は二人になり、気まずい沈黙が漂う。
千晶の横顔は、そこに何の感情を浮かべていなかった。

「……さっきの、見た?」

あたしは耐え切れず訊ねた。明との一部始終は、見ていたら見ていたで仕方がないが、またからかわれるので、まどかには言わないで欲しかった。

「ん、何のこと?あたしは杏子が明さんと話してるとこしか見てないよ」

千晶がきょとんとした顔で言った。そうか。見ていなかったのか。けれどもしかしたら、あたしに気を遣って、嘘を吐いてくれているのかもしれないが、彼女の言葉をそれ以上言及するつもりはなかった。

「まどかも言ってたけど、明さんいい人で良かったね。杏子の事、すごく大切にしてくれてると思う」

「そうかな…」

「そうだよ」

「千晶、今日誘って迷惑じゃなかった?何か無理に来てもらっちゃってごめん」

それだけはどうしても千晶に言いたくて、あたしは謝った。

「だから、別に嫌じゃないって。まぁバンドやってる人達って、あんまいいイメージなかったけど、みんないい人だし。楽しかったよ」

「でも…」

「もう、しつこいよ。ホラ、行こう」

千晶は明るく言うと、あたしを置いて歩き始めた。
その顔は笑っていた。
良かった。いつもの千晶だ。

そしてあたし達も皆に合流して片付けを手伝った。
撤収作業を終えると、二台の車は仲良く連なりながら海水浴場を後にした。
時間はもう、午後六時を軽く過ぎていた。

帰りの車の中では、長時間海で遊んで疲れたのか、まどかはぐっすり眠ってしまっていた。あたしもそれは一緒で、運転している明には悪いなと思いつつも、何度も何度も船を漕いだ。
千晶の方は、何となく見ない様にしていたから、眠っていたのか起きていたのかわからなかった。

二人を先に降ろし、明の車があたしの家に着いたのが午後八時過ぎだった。
あたしはお礼を言って、明の車から降りた。
明とあたしの家は意外に近く、車で15分ぐらいの距離である。
別れる時、明ともう一度だけキスをした。