「今はちょっと喧嘩して、たまたま離れてるけど、またすぐヨリは戻るんだから。それを途中から割り込んできて何なわけ?」

アユミもあたしを睨み付けながら、早口でまくしたてる。
そう言えばライブが終わってアユミに腕を掴まれた時、その手の力が思いの外強くて、振り払おうとしたけど出来なかった。
こんな、風が吹いたら飛んでいきそうな細くて薄い身体の一体どこにあんな力があったのだろう。

「あたしは…明とは、友達として一緒にいるんです。だから明が誰と付き合おうが、雛妃さんとヨリを戻そうが、あたしには関係ありません。ご自由にしてください」

生来の気の弱さのせいか、あたしは三人の顔は見れずに、でも精一杯の勇気を振り絞り反論した。

この三人は根本的に勘違いをしている。
三人はあたしが明と雛妃の恋路を邪魔する泥棒猫だと思い込んでいる。
そりゃあ確かに、あたしは明が好きだが、二人の関係は今のところただの【友人】なのである。
もし明が雛妃とヨリを戻したとしても、それは明が決めることであり、【友人】のあたしにはどうこう言う権利はない。
もし実際にそうなったら−今度こそ、この気持ちは断ち切らなければいけないが、仕方ない。
【友人】として個人的に会えなくなることよりも、今日みたいにライブハウスで、フェニックスのギタリストでいる明に会えなくなる方が、あたしには辛かった。

「なにこいつ、生意気!!」

そんなあたしの思いは三人には届かなかった様だ。
リナがまた大声を出した。
その際に唾があたしの顔に飛んだため、手で拭った。

「とかなんとか言って、どうせあんたも、明目当てなんでしょ?
友達だなんだって綺麗事言ってるけどさ、本当は明と付き合いたくてたまらないくせに。あんたの顔を見ればわかるよ」

アユミがおかしそうに笑って言う。
その言葉にあたしの胸は疼いた。必死に抑圧していた本心を、万に一つの確率に賭けた願望を、見透かされた様に感じたから。

雛妃もまた口元だけ笑ってはいたが、目は先程と同様冷たいままだった。
まるで巣にかかった獲物の蝶を、どうやっていたぶろうかと楽しむ蜘蛛のような女だ、と思った。
アユミが更に続ける。

「あんたと明が釣り合う訳ないじゃん。大体あんたさ、新参ファンのくせに、古参のあたし達に挨拶もナシでさ。
前から気に入らないと思ってたんだよ」

アユミのこの完全に相手を馬鹿にしきった表情と態度。
小・中学校とあたしをいじめていたクラスメイトの女子にそっくりだった。

何故あの時あたしは、あいつらに「やめて」と言わなかったんだろう、親や教師が頼りなくても、他に誰も味方がいなくても、何故いじめに立ち向かわなかったんだろう。
あたしの味方になれるのは、あたししかいないのに。

あんな思いは、もう嫌だった。

あたしは真っ正面から、アユミを、リナを、そして雛妃を見据えて言った。

「新参とか、古参とか、同じフェニックスのファン同士じゃないですか。
それなのに、そんな派閥争いみたいな事をしなくちゃいけないんですか?くだらない」

この事については、あたしも以前から疑問だった。
例の掲示板にも、「新規のファンの子は、なるべく雛妃に挨拶した方がいい。あいつに嫌われると面倒だよ」と書き込みがあった。
確かにファンが勝手な行動をして、他のファンやメンバーに迷惑をかけない様に、規制する人は確かに必要かもしれない。
でも、彼女達のやっている事はただの支配でしかない。根本的には学生時代の女子によくある仲良しグループ同士の派閥争いに過ぎない、とあたしは思う。
あたし達のグループに入るんだったら、仲良くしてあげる。でも入らないんだったら−いじめるからね。

「くだらないって…ホントにこいつ、生意気!!」

リナがまた声を荒げた。
あたしはまた飛んだ唾を避けるべく顔を背けた。
さっきから生意気と言う単語を連呼して、リナはあまり頭は良くなく、弁も立たないタイプだろうと思った。
典型的な強い者に媚びへつらう腰巾着。虎の威を借る豚−いや狐だったか。

「へぇ…。意外に芯は強いのね。見直したわ。」

雛妃が、感心した様に目を丸くして言う。
これもあたしを小馬鹿にする為にやっている演技であるならば、大した女優である。
あたしは気にせず続けた。

「確かにあたしは、明のファンです。でも、それ以前にフェニックスのファンなんです。
フェニックスの曲が大好きで、聴くと楽しい気持ちになったり、落ち込んだ時は励まされました。
彼らの曲は、本当に支えなんです。だから彼らが、もっと上のステージに立てる様にと願って、今日もこうしてライブに応援しに来たんです。
他のファンだって、ほとんどの子は、あたしと同じように思っているハズです。それなのに、こんな縄張り争いみたいな…。ファン同士の空気を乱しているのは、あなた達の方ですよ」

「話をすり替えんじゃねーよ!!」とまたリナが声を上げた。
雛妃がアユミに目配せをする。するとアユミは皮のバッグから、何かを取り出した。
彼女が握っているのは…どこにでもある、何の変哲もない文房具のハサミだった。

あたしの髪を切るつもりだ−…。

ハサミの刃が、夜空に浮かぶ月に反射して鋭く光る。

「これはこれは、なんとまぁいい演説だったよ。でもね…二度と明に近付けない様にしてあげるよ」

逃げよう、と思った時にはもう遅かった。
あたしはリナに羽交い締めにされ、身動きが取れなくなっていた。
ゆっくりと、ハサミを持ったアユミがこちらに近付いてくる。
こんな風に、雛妃達に目を付けられ【制裁】を受けたファンは他にもいるんだろう−…とぼんやり考えたその時。

「やめろ!!」

聞き覚えのある声がしたと同時に、黒い影がアユミに体当たりを食らわせた。
身体の細いアユミは悲鳴を上げてもろに吹っ飛び、手からハサミが落ちた。
黒い影が素早く道路に落ちたハサミを手に取る。

明だった。
明が、助けに来てくれた。
中学校を卒業するまで、あんなにいじめられても、誰にも見向きもされなかったあたしなのに。
この時ばかりは、明が本当にあたしの王子様なんじゃないかって、普段なら絶対考えないであろう事を思ったりもした。
それと同時に、やっとこの場を切り抜けられると安堵した。

「…こんな事もあろうかと思って来てみれば…。お前らいい加減にしろよ。この子は俺の彼女だぞ」

明はそう言って、リナからあたしを引き剥がし、しっかりと肩を抱いてくれた。

えっ?
今、なんて言ったの?
この子は、俺の彼女−…。
この子って、もしかして、いやもしかしなくても、あたしの事??
えっ?あたし達ってそうだったの?
あたしが、明の彼女−…?

あたしも二人と同じような顔をしていたに違いないが、それを聞いたアユミとリナは、驚きで口をあんぐりと開け、まるで鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしていた。
それでも雛妃は、眉一つ動かさず、冷ややかにあたしと明を見ていた。
果たしてこの女には、人間らしい感情ってものがあるんだろうか?

「え?え?な、何言ってるの明」

この状況は、リナの頭の中の複雑回路で処理出来る容量を軽くオーバーしてしまったらしい。
目が泳ぎ、話し方もしどろもどろで完全に混乱してしまっている。

「この前の喧嘩なら、雛妃はもう許してるよ?やっぱり明には雛妃じゃないと…」

明に突き飛ばされた形になったアユミは、ゆっくりと老婆の様な動作で立ち上がり、打撲でもしたのか腰を擦りながら口を開く。
その表情は、明によって勢いを削がれて先程までの威勢の良さやサディスティックさが消え失せ、すっかり気弱なものになってしまっていた。
彼女もまた、自分より弱い者にしか強く出れないタイプだろう。そんな所まで、あのクラスメイトだった女にそっくりだ。
自分より強い者には弱く、弱い者には限りなく強い。

「うるせえ!!今俺はこの子が好きなんだよ!!」

明が声を荒げ、あたしを抱きすくめた。
いつものファミレスや公園で、隣や向かい合わせに座って話す以上に、明を感じられた。

明の体温。
明のぬくもり。
明の微かに香る香水。
明の息遣い。
明の心臓の鼓動。

あたしの髪が、明の手に触れている。

その全てを一度に、−しかも予告なしで急にいきなり−感じられて、嬉しいやら驚いているやらで、どうしていいかわからなかった。
あたしの脳内の複雑回路もオーバーヒートしてしまったらしい。ただ目を見開き、立ち尽くしてこの場を見守る事しか出来なくなってしまった。

「それと…雛妃」

しっかりと腕にあたしを抱いたまま、明は続けた。
明に名前を呼ばれ、ほんの少しだけ雛妃の唇の端が動いた。
血の様に真っ赤な口紅で彩られた、形の良いぷっくりとした肉感的な唇だった。

「…確かに今まで、俺やフェニックスを支えてくれて感謝してる。
でも、俺は俺であって、それ以上でもそれ以下でもねぇ。お前の期待には応えられねぇ。
お前の望む様な、お偉いギタリスト様には、決してなれないと思うし、なるつもりもねぇ。
それから…この子の言う通りだ、ファンを管理する様な真似ももうやめてくれ。
あのサイトにこの子の悪口を書いたのも、お前らだろ?
俺達のマネージャー的存在になってくれたのは、助かってるけど、今のやり方は度が過ぎてる。皆が安心して俺達の音楽を楽しめなくなってる。迷惑だ」

「そんな明。あたし達…」

アユミが抗議の声をあげるも、明は顎をしゃくって「帰れよ。これ以上軽蔑させないでくれるか?」と冷たくげに言い放つだけだった。
明がこれだけ言い募っても、雛妃はやはり表情を一つ変えなかった。
その代わりにフンと鼻を鳴らし「…言いたい事はそれだけ?」と言った。

「ああ、俺とお前はもう終わったんだ」

あたしを一層強く抱き締めるながら、明は一言一言ゆっくりと力強く言った。
まるで自分に言い聞かせるかの様に。

「そう…。わかったわ。でも、私は待ってるわよ。
あんたとその子がお別れする日をね。あんたは、私じゃないとダメなんだから」

そう言って、くるりと踵を返すと雛妃はコツコツと夜の路地に消えていった。
アユミとリナも、慌てて後を追う。
三人の姿が完全に見えなくなると、明はあたしから離れた。
先程の大宣言を思い出し、あたしは赤面するわ緊張するわ全身が硬直してるわでてんやわんやな状態だ。
明もそれに気付いているらしく、気まずそうに突っ立っている。
しばしの間、二人の間に沈黙が走る。

「……大丈夫か?」

明がぶっきらぼうに尋ねる。よく見ると、彼の耳も少し赤かった。

「うん…。ありがとう…。助けてくれて…」

明が来てくれなかったら、あたしは今頃アユミの手によって坊主頭にされていただろう。
そしてその様子も、掲示板に面白おかしく書き立てられて、フェニックスのライブにも二度と足を運べなくなっていたかもしれない。

「いや…。ここ最近のあいつらの様子、なんか変だったし。なんかしでかすんじゃねぇかと思ってな…」

「…あたしにはあのサイト、くだらないから見るなって言っていたのに、明も見てたんだね」

なんだか自分で言っている途中で、おかしくなってあたしは吹き出した。

「だって、そりゃあ…!あいつらが杏子になんかするんじゃねぇかと思って調べてたんだよ!!」

明がムキになって答える。
いつものファミレスや公園で見る、年相応の男の子の等身大の表情。
あたしは、これに弱い。

「今…杏子って…」

「あ」

明がしまった、と言わんばかりに口に手を当てる。
勇気を、出して聞かなきゃ。
このチャンスを逃したら、もう一生聞けない様な気さえしてきた。

気弱でおとなしく、いじめられっ子だったあたしが、雛妃やアユミにあれだけ罵倒されても、立ち向かう事が出来たんだ。
あの時の、ただバカにされるがままで我慢して、全てを泣いて諦めていたあたしじゃない。
今なら、なんでも出来る気がした。

「…さっき、この子は俺の彼女だって、今俺はこの子が好きなんだって言った」

「………」

「あれって、本当なの…?いきなり言われたから、あたしよくわかんない。
もう一回ちゃんと言って」

あたしは真っ直ぐ明を見つめて言った。
唇が、肩が、足がガクガクと震えているのがわかる。
嫌だ。恥ずかしい。ここから逃げ出したい−…そんな気持ちはどうしても湧き出してしまう。
「あれはあの場を逃れる為のウソに決まってるじゃん」と言われるかもしれない。
それでも、あたしは、明の答えが聞きたかった。

「あ〜もう!ハッキリ言わねぇとわかんねぇのかよ!」

明がバツが悪そうに、その長めの黒髪をクシャクシャに掻き回す。
その後でニヤリと笑いながら、あたしを見て言った。

「参ったな、こりゃ。なんとも面倒くせぇ女を好きになったモンだわ」

「…え?」

「好きだよ、杏子。…まぁ俺としては、前から付き合ってたつもりだったんだけど、そう思ってたのは俺だけだったみたいだから、改めて言うわ」

「……」

「俺と、付き合ってくれ」

好きだよ、杏子−…。
俺と、付き合ってくれ−…。

すっかり真っ白になったあたしの頭の中は、壊れたテープレコーダーみたいにその二つの言葉だけを何度も反芻した。
もうここまで来ると、脳内の複雑回路がオーバーヒートどころか完全にシャットアウトである。

だって、明が、あたしを好き?
この街の人気インディーズバンド、フェニックスのギタリストの明が、あたしに恋人としての交際を申し込んでいる−…?

有り得ない。
ごく稀に、世の中には有り得ないと思った現象が実際に起こったりもするが、今回ばかりは有り得ない。
例えば、日本の内閣総理大臣に、H県I市にお住まいの大学生・斎藤明さんのお家で飼われている犬のサチちゃんが就任しました−と言うのと同じぐらい有り得ない。

そう思った所であたしの意識は遠のき、次第に全身の力がすぅっと抜け−…

「おいっ!?」

あたしは卒倒しそうになった。が、明がそれを受け止めてくれた。
また明があたしを抱き締めている形になった。

「大丈夫?…死ぬなよ?」

明は呆れた様に笑い、あたしの顔を見つめてくる。
なんだか見ているだけでホッとする、優しい笑顔だった。
雛妃達に呼び出されてから、ずっと極度の緊張に晒されていて、ここに来てその糸がプツンと切れたのだ。

ああ、もうダメ。
力が入らない。
何も考えられない−…でも、これだけは言わなきゃ。
あたしはその問いに答える代わりに、ぎゅっと腕に力を込めて明を抱き返した。
そして、その耳元で囁く。
この想いは、明にしか聞こえないように−…。

「あたしも…ずっと明が好きだった。フェニックスのライブを、初めて見た時から…」

「うん」

「アユミの言う通り、友達なんて体の良い言い訳…。本当は、ずっと明と付き合いたかった−…」

「うん。…しかし俺、こんなにハッキリ告白らしい告白って初めてしたわ」

明が今度はポリポリと照れくさそうに頭を掻く。
何かと動作が忙しない。

「そうなの?だってあたし、付き合った事ないんだもん。ハッキリ言ってくれないとわかんないよ」

「マジ!?嘘だろ?周りの男連中、見る目ねぇな〜…」

「だって…!」

「はいはいストップ」

そう言って、その大きな手であたしの口を塞いだ。

「もう、それ以上言うな。
…ただ、しばらくこうしててもいいか?」

そのままあたしがコクンと頷くと、明が優しく頭を撫でくれる。

「あ」

あたしと明が声を上げたのはほぼ同時だった。
【ブルーキャッツ】のオーナーが、喫茶店兼ライブハウスの従業員用のドアから出てきたのだ。
写真を見るよりずっと若く、背が高くて体格もガッシリとしている。
そのごましお頭でさえも素敵に思えた。
ドアに施錠をしたオーナーは、加えていた煙草に火を付けると、あたし達に向かってウィンクをし、店の傍に停めていた大型バイクにまたがり、颯爽と去っていった。
なんてダンディーなおじさまなんだろう。
明もそう思ったのか、二人で顔を見合わせ笑い合う。
そして、どちらからともなく、また抱き締めあった。

ふと明の腕の中で、あたしは夜空を見上げた。
もう夜の帳は下りきり、雲一つない澄みきった空に満月が浮かんでいる。
まるであたし達を祝福しているかのようだった。

もしかして、今までの人生は辛い事ばかりだったが、それさえも明に出会う為の試練だったんだと思えた。
これからは、もっとより良い方向に進んでいけるハズ−…明と一緒なら。
あの満月の向こうに、素晴らしい未来がきっと待っている様な、そんな気がした。
明と正式に恋人同士になって、早いもので1ヶ月が経とうとしていた。

8月になり、明の大学もいつの間にか夏休みに入っていた。
付き合う前と後で、何か展開が変わったかと言えば全くそうではなかった。
まず夏休みと言っても、明は相変わらずバンドの練習やアルバイトで忙しい。
メールは毎日やりとりはしているが、会うペースも会う場所も、何も変わらない。
それ以上の…進展はないまま現状維持の日々だ。

今日もまた、いつもと同じデートコース。
あたしのバイト上がりの夕方、地下鉄A駅の改札口で明と待ち合わせる。
落ち合った後は、近くのスーパーマーケットでサンドイッチやカップラーメン、ジュースやお茶などを買い込み、A駅からそう遠くない公園に足を運ぶ。
そしてその食料を飲み食いしながら、暗くなるまで二人で駄弁って過ごす。

なんともお金の掛からない、お粗末なデートと言われればそうだが、あたしはこの公園デートが結構気に入っている。
夜景が見えるレストランも、高級車でドライブもいらない。あたしは明と一緒に居られれば、それだけでいいと伝えた。
すると明は「やっすい女だな」とあたしをバカにし、でも嬉しそうに笑った。

「え…フェニックスで海水浴?」

「そ」

あたしと明はブランコに乗りながら、買ったコーラを飲んでいた。
明の影響で、それまで炭酸系の飲み物は敬遠していたあたしまでしばしば飲む様になってしまった。
瞬介に知れたら「お姉ちゃん、太るからコーラはダメだって!」と叱られてしまうだろう。

今日も日中は唸る程の蒸し暑さだった。
時刻は17時を過ぎたと言うのに、外はまだ明るく依然として気温は高いままだ。

「来週の水曜日って、杏子バイト休みじゃん?俺もバイトだったんだけど、あいつらが海行こうって言うからシフト代わってもらってさ。それでどうかなって思って」

明はコーラを左手に、右手には溶けかけのアイスクリームを握っている。
あまりに暑いからと、明がスーパーで購入したのだ。
何とも美味そうにペロリと食べている。
確かにこの時期はアイスが食べたくなるが、これ以上カロリーの高い物は口にしたくない。
あたしは最近、将来明が生活習慣病にかかるのではと割りと本気で心配している。

「海水浴か…」

フェニックスのメンバーと海水浴なんて、ファンに取ってはこの上ない楽園であろう。
言ってしまえば、アイドルグループの追っかけをやっている子が、そのグループ全員とデート出来る様なものだ。
他のファンに知れたら、坊主頭にされるだけじゃ済まないかもしれない。

「来るのは、ご存知の通り俺と海と慎二、隆人(タカヒト)とその彼女」

明と付き合ってから教えてもらったのだが、フェニックスのメンバーは全員、本名でバンド活動を行っていた。
だが、ベースの琉斗だけは違った。

彼は本名を高梨隆人と言い、なんとお家は代々続くお寺の跡取り息子。これはフェニックス最大のトップ・シークレットらしい。
年齢はあたし達より一つ上の20歳だ。
ステージネームが【琉斗】なのは、彼自身が「タカヒトなんて名前、寺の息子みたいでマジダサい」と言うよくわからない理由から。
しかしその名前はりゅうととも読めることから、それに今時の若者が好きそうな漢字を当て嵌めたのだと言う。
彼の本業は学生で、電車で一時間以上掛けて、市外にある仏教系の大学に通っているそうだ。
大学を卒業したら、仏門に入って修行をする事を条件に、それまでの期間限定として、今のバンド活動は好きにさせてもらっているらしい。

琉斗は髪は明るい金髪で、両耳にはピアスの穴が無数に空いていて、着ている服装と言えばいつもコテコテのロックファッション。
どこからどう見たって、由緒あるお寺の息子に見える訳がない。
仏教の仕来たりとかはわからないが、破門にはならないのだろうか?
それに正直言って、琉斗は身長は168センチくらいの小柄で目は細く三白眼。
ステージでベースを弾く以外は、動きに落ち着きがない。
また、ライブのMCでは他のメンバーに悪態を吐いたり、タチの悪い冗談を言ってファンに絡んだりする。
正直言って苦手なタイプだし、たまにあたしの目には凶悪な顔付きの猿が暴れまわっている様に見える。
「どうする?やっぱ行く気にならねぇ?」

ソフトクリームを食べ終えた明が、考え込んでいるあたしに聞く。

「行きたい…けどさぁ。ライブでは見たことあるけど、皆に直接会うのは初めてじゃん。やっぱ緊張するよ」

あたしが唇を噛んで答えた。そりゃあフェニックスのメンバーと一緒に遊べるなんて、願ってもいないチャンスだが、どうしても尻込みしてしまう。

「まぁな、杏子は人見知りだもんな」

この1ヶ月の間に、すっかり明はあたしの性格を把握してしまったらしい。
この前なんか、「杏子は一見わかりにくいけど、蓋を開けてみれば実はわかりやすい」だの「石橋を叩いて割って、渡れなくするタイプ」と評された。
喜んでいいのかわからないし、後者はあまり嬉しくないが。

「じゃあさ、こうしねぇ?」

「え?」

「杏子の友達も誘って、一緒に来てもらう。知ってる奴が俺しかいないより心強いだろ?」

「友達かぁ…いいかもしれない」

頭にまどかと千晶の顔が思い浮かぶ。
いつも学校やバイトや、まどかに至ってはおそらく遊びに忙しいだろうが、今は夏休みだ。
予定が空いていたら、もしかしたら来てくれるかもしれない。
あたしもバイトや、こうして明との逢瀬をつい優先してしまい、二人には【MARS】でのライブの日以来会っていないし、連絡も怠ってしまっていた。
海水浴云々は抜きにしても、二人に会いたかった。

「わかった…聞いてみる!」

「友達ってあのプリクラの?」

「うん」

「そっか、楽しみだな」

明がそう言って、楽しそうにブランコを勢い良く漕いでいる。
あたしは明の中で、千晶の印象深く覚えていたのを思い出した。
千晶に会えるから楽しみなのかなと、ふと悪い方に考えたりもした。
すると、ブランコを漕ぐのを止めた明が、真剣な表情であたしを見ると、ふとその手をあたしの手に重ねた。

「え…」

いきなりの展開に、また頭が何も考えられなくなる。どんどん顔が熱くなっていくのがわかる。我ながら、なんてアドリブに弱いんだろう。

「何が楽しみかって、皆に杏子のこと自慢出来ること。俺の彼女はこんなに可愛いんだぞ、羨ましいだろって」

「そんな、可愛いだなんて…」

つい気恥ずかしくなり、あたしは下を向く。
明があたしの事を、そんな風に思っていたなんて。
あたしの方こそ、自分には勿体ないぐらいの彼氏だって、いつも思っているのに。
前の恋人だった雛妃に比べたら、あたしなんて月とスッポン、美女とこけしか一抹人形だろう。

「杏子は可愛いの。だから、もっと自分に自信持つの。いい?」

明は優しい笑顔を浮かべると、あたしの手をギュッと握った。
なんて温かい手なんだろう。明の体温が、どんどん伝わってくる。
あたしは明を見つめて、「…うん」とだけ言った。
それからは、ずっと手を繋いで過ごした。

夜からは、明がドラムの慎のアパートに泊まりに行くと言うので、結局明のバイトがある日と同じ様な時間にお開きになった。
恒例の、バス停までのお見送りも、あたしがバスに乗るまで手を話さなかった。

まどかと千晶に、この事を報告したら、驚くだろうか?どんな反応をするだろうか?どんな風に思うだろうか?
それが楽しみでもあり、ほんの少しだけ不安になったりもした。

…でも、頭と心がついていかないので、まだこれ以上の進展は今は考えられなかった。
つくづく自分は奥手であると実感した。
久し振りに訪れたまどかの家は、とても快適だった。

自宅のあたしの部屋の広さは六畳だが、まどかの部屋はその倍はあるだろう。
可愛らしいファンシーなインテリアに囲まれて異彩を放つそれは、あたしと千晶を天国へと誘った。

「涼しい…。やっぱ家にエアコンあるといいね〜」

千晶はまどかのお母さんが淹れてくれたアイスティーーを飲みながら、感慨深い口調で言った。

実にその通りである。まどかの部屋にあるエアコンは、実に心地良い空間をあたし達に提供してくれている。
ここ一週間、ずっと日中の最高温度が30℃を越える真夏日が続いている。
今日も今日とで、それは例外ではなく、屋内野外問わず、どこにいても暑い。動かずじっとしていても、身体中の毛穴からぶわっと汗が吹き出してくるのがわかる。

「本当羨ましい…」

あたしもそれに賛同する。

初めて明と手を繋いだデートから、三日後の木曜日の昼下がり。珍しくあたし達三人の休日が一致した。
あたしのバイトは、1ヶ月ごとに休みが決まるシフト制で、たまに土日が休みになる場合もある。
まどかはお小遣い稼ぎのバイトを週二回程度にしかしていなく、千晶は学校が夏休みの今は短期のバイトをしていると言う。

「そんな事ないよぉ。ママってば最近ケチだから、あんまりエアコンつけるなってうるさいし」

まどかはそう言いながら、お母さんお手製のスコーンを口に運ぶ。
まどかのお母さんは、美人で物腰が柔らかくいつもニコニコしていて、身なりもいつもお洒落にしている。
まさにお金持ちの家の専業主婦と言う感じだ。
いつも終わりの無いパートと家事労働に疲れ果てながらも、髪を振り乱して働くうちのママとは雲泥の差だ。

「って言うかさ…」

まどかがニヤッと笑いながらあたしを横目で見る。
三人で囲んでいる高価そうな木目調のローテーブルの上には、フェニックスのライブ告知のチラシが置いてあった。

「ホントにもう、杏子ったら!いつの間に、こんなカッコイイ人と付き合ってたなんて!」

そんな感嘆の声を上げて、まどかはあたしの腕を肘でつついた。明と会った日の翌日、あたしから二人に「報告したい事があるし、久し振りに三人で遊びたい」とメールを送ったのだ。
遊ぶ場所は、街の中心部でも良かったのだが、今は夏休みで若者が行きそうな所は何処も混んでいる。
それで千晶が「なんなら、まどかの家に涼みに行こっか」と提案してくれ、まどかも二つ返事で了承してくれた。
ちなみに、あたしと千晶の家にはエアコンなんてものはない。

「え…それは…」

まどかに冷やかされ、あたしはどう反応していいかわからず赤面する。
この二人は以前から、あたしがフェニックスのファンだって事は知っていたが、まさかそのメンバーと付き合うなんて、これっぽっちも想像していなかったであろう。
明との交際を報告すると、期待通りに二人は大いに驚いてくれた。
まどかは悲鳴に近い声を上げ、千晶も目を大きく見開き「マジで?」とあたしに聞いた。
これもまた期待通りの反応である。

「ホントにそんな事ってあるんだねぇ…。この明と」

千晶はすっかり感心した面持ちで、チラシに載っている営業用の顔をした明をしげしげと見ている。

「うん…。あたしも信じられない…」

「信じられないって、今実際に付き合ってんじゃん!そっか、杏子はこのフェニックスにお目当ての人がいたのね」

まどかは、本当に楽しそうで目を爛々と輝かせている。

「いや、さっ、最初はそんなんじゃなくて…。最初は本当にフェニックスの音楽が好きで、その中でも明がカッコイイって思ってて、それで…」

「んもぅ!それをお目当てって言うんでしょ〜」

今度はまどかに両方の頬をペチペチと叩かれる。今日はずっとこんな扱いだろう。少しばかり不本意だが仕方ない。

「…それでさ、実は二人にお願いがあって…。」

あたしが静かに切り出すと、二人は黙って聞く姿勢に入ってくれた。
普段はどんなにふざけていても、こうやってあたしの話を聞く時は、いつも真剣に耳を傾けてくれる二人。
それは高校時代から少しも変わっていなく、あたしは数は少ないながらも、良い友人を持ったなぁとしみじみと思った。

「来週の水曜日に、フェニックスのメンバーで海水浴に行くけど来ないって誘われてて。それであたし、明以外の他のメンバーとは、初対面で、なんか緊張するって言うか…。
そしたら明が、友達も連れてきていいよって言ってくれて…」

そこまで言って、改めて二人の顔を見直すと、まどかと千晶は顔を見合わせている。

「…一緒に来てくれる?」

そう言い終えると、あたしはゴクリと唾を飲んだ。
二人はお互いの顔を見合わせた後、今度はあたしの顔を無言でしばし見つめて−…。

「あービックリした!お願いがあるって言うから、何かと思えばそんな事〜!
いいよぉ、あたしの大事な杏子の為だもん、行くに決まってんじゃん!」

そう言ってまどかは満面の笑みを浮かべてくれる。
しかし、その一方で千晶はテーブルを拳で軽くコンコンと叩きながら、難しい表情を浮かべている千晶。

「…千晶は?どう?用事とかある?」

「いやぁ、その日は全然ヒマだから、行けるけどさ…」

あたしが恐る恐る訊ねても、千晶の反応は芳しくないままだ。
どうしたんだろう?あたし、何か気の触る事でも言ってしまったんだろうか?

「千晶も行くでしょ?もしかしたら、他のメンバーともお近づきになれるかもしれないじゃん!ホラ見てよ、皆こんなにカッコイイじゃん。特にこのヴォーカルの海なんか、超イケメン〜」

「確かにその海って人は、女にしか見えないね」

すっかりその気になり、はしゃいでいるまどかとは対照的に、仏頂面のままの千晶。

「…杏子、大丈夫なの?」

「え?」

千晶の目が鋭くあたしを射る。

「…実はあたしも、杏子の悪口が書かれていたっていう掲示板サイト、見たことあるんだ。そう言っても大分前だけどね」

二人には明と付き合う経緯として、雛妃達との間に起きた出来事の一部始終も簡単に話した。二人とも「そいつらマジで最低だね」と吐き捨ててくれた。

「その、ギターの明って、かなり女癖悪いんでしょ?ファンの子に次から次に手を出したり、彼女がいてもすぐ浮気したり…。それは海もらしいけど」

千晶もあのサイト、見ていたとは。あたしは少し意外だった。
高校時代からいつもクールで、周りからいくら慕われてても、「あたしはあたし」と超然としていたあの千晶が、あんな低俗なサイトを見てたなんて。
周囲の人間の噂話や、その関係の移り変わりにいつも興味津々のまどかはともかく、千晶は他人にあまり関心がないと思っていたから。

「え…。それは…。」

あたしはその問いに、きちんとした回答を出来ず、しどろもどろしてしまう。
確かにその噂は気になるが、まだ明にそれを聞いていない。どうして雛妃と別れたのかもまだ聞けてはいないのに、どうしてそんな高度な質問が出来ようか。

「まぁ確かに、バンドやってる人は遊び人が多いって聞くよねぇ…」

まどかも千晶の言葉に納得した様で、先程のテンションの高さもどこへやら、真顔で頷いている。

千晶はあたしを心配してくれているんだ。
その気持ちは、凄く嬉しいし、ありがたいと思う。やはり、何と言っても火のない所に煙は立たないのだから。
でも今は、あたしは明が好きで、明もあたしを好きだと言ってくれている。
その時の明の優しい表情や眼差し、繋いだ手の温かさは、そんなあたしを騙す様なものではないと信じたい。

その様な事を、ゆっくりと時間をかけて二人に伝えた。

「…まぁさ、ホントに明が噂通りの悪い奴なら、その追っかけのリーダーに捕まった杏子を、助けに来たりしないよね。だってめんどくさいじゃん。どうでもいい女助けるなんて」

まどかは溜め息を一つつくと、あたしに倣う様にゆっくりと話した。

「…そうだね。それはそうかもね。杏子、なんか変な勘繰りしちゃってゴメンね」

そう言って千晶はあたしの方を向き直り、申し訳なさそうに謝った。

「ううん…。心配してくれてありがとう」

「あたしも行くよ、海水浴。若いうちに色々楽しみたいしね」

「本当!?ありがとう千晶、まどか!!」

あたしは二人の快い返事に感激して、お礼を述べた。
これでフェニックスの海水浴に行ける事ももちろんだが、この二人とも楽しく過ごせると思うと一気に楽しみになった。

「よーし!そうと決まったら、これから水着買いに行かない!?」

まどかが甲高い声を上げ、あたしと千晶に向き直る。

「いや水着は…ちょっと…」

「何言ってんの杏子。ここで可愛い水着を着て、明を惚れ直させないと」

「えぇ…そんな…」

まどかはすっかりその気で、黄色のキャミソールワンピースの上から、上着のGジャンを羽織り始めた。

「二人とも何ボーっとしてるの。これから買い物行くよ!ほら、千晶も!」

「あたしはいいよ…。買い物には、付き合うけど」

千晶は面倒臭そうに答え、最後の一個のスコーンを手に取った。

「そんなおやつなんていいから!行くったら行くの!」

まどかに強引に外に連れ出される千晶とあたし。
水着を着るなんて、凄く恥ずかしい…。
でも、もし明が見たらなんて言ってくれるかな?
それを思うと、なんだか楽しみになった。
もっともっと、暑い夏になれと思った。
そしていよいよ待ちに待った海水浴当日。

現在の時刻は午前10時。
あたしは、明との待ち合わせ場所である、自宅から徒歩10分のコンビニで、雑誌を立ち読みしながら彼を待っていた。
持っているトートバッグは、バスタオルや着替えや砂浜で使うビニールシートを詰め込んだお陰で重く、最早肩がおかしくなりそうだった。

今日も朝から気温が高く、これ以上ないってくらい空は快晴だ。
まさに海水浴日和である。

明は家の車を運転し、まずここであたしを拾い、それからまどかと千晶の家まで行き、二人を乗せて海水浴場に行く。
一方のフェニックスのメンバーはと言うと、ベースの隆人…いや琉斗が家の車を使い、彼女と海と慎を乗せて来るのだと言う。

ちなみに目的地は、少しばかり遠出をして、あたし達の住む街から車で約2時間の距離にあるY町の海水浴場だ。
そこはフェニックスのお気に入りの場所であり、標高300メートル近い岬と数々の山に囲まれている。比較的大きな海で、簡易トイレやシャワー室などが設置され、炊事棟もある為キャンプをする若者や家族連れも多いのだと言う。
沖に波消しブロックが設置されているので、波や風も然程強くないらしく、あまり泳ぎが得意ではないあたしでも安心して海に入る事が出来そうだ。
まぁ、明曰くフェニックスがそこを気に入った一番の理由が「駐車場が広く、しかもタダ」と聞いて、少し笑った。何かとお金の掛かるインディーズバンドは、金銭的にシビアでないとやっていけないものらしい。

海水浴と言えば、子供の時に家族四人で隣のI市にあるこじんまりとしたビーチや、高校時代にまどかや千晶と自転車で行った、近郊の街の海水浴場しかあたしは知らない。後者は、夏はいつ行っても軽薄そうな若者でごった返している上に、遊泳やキャンプよりもナンパや【一夜だけの大人の交際】目当ての不純な客が多くてあまりいい想い出がないが。

ふと雑誌から目を上げ、窓の外の駐車場を見ると、いやに年季の入った白い軽自動車が一台、停まっているのがわかった。
その運転席には、派手な柄のアロハシャツにサングラスを掛けた明が乗っている。
普段のあたしなら怖くて絶対に近付けない人種の風貌だが、それを見てすぐさま店を出て助手席のドアを開ける。

「おはよう!」

「おう」

あたしが挨拶をすると、明がサングラスを少しだけずらして笑った。
その笑顔に、今日もまた魅了される。

「あ、飲み物とか買ってく?」

「いや、あいつら途中でお茶とかジュースとか食い物適当に買ってくるって言ってたから、任せちまおうかと思って」

「そうなんだ。じゃあ早速出発する?」

「ああ」

それを聞いて、あたしはシートベルトを締める。
すると明が、後部座席にあったコンビニの買い物袋から、缶コーラを二本取り出した。

「でも、これは別。…あ、ゴメン。友達の分買ってくるの忘れた」

わざとらしく肩をすくめる明に、思わず声を出して笑ってしまう。
まるであたしの笑い声を合図にして、明は車を発進させた。
つい最近運転免許を取得したばかりだと言うのに、明のハンドルさばきは慣れたものだった。

「そう言えばさ、杏子水着どうしたの?」

サングラスの奥にある明の目が、チラリとあたしを見る。

「うん…。水着持ってなかったから、買っちゃった」

結局あの日はあれから、三人で街の中心部に繰り出し、ファッションビルで水着を物色したのだった。
まどかはバイトの給料が入ったばかりだと言うので、気前良く新作のビキニを購入していた。
一年に一回か二回しか着る機会がない物に、そんなにお金は出せないと思ったあたしと千晶は、それより半額以下の値段のものを買った。

「マジ!?ビキニ?」

「う…うん。」

「この中に着てるんだよね?」

道路が信号待ちな事もあり、明はあからさまにあたしの体を見る。
現地に到着してすぐ海に入れる様に、今着ているマキシワンピースの下に水着を付けてきたのだ。

「…あんまり見ないでよ、恥ずかしいから」

あたしが目を反らして俯くと、明は「ん、ゴメン。なんか俺、楽しみでさ」と片手であたしの頭を撫でてくれた。
あたしが運転している訳でもないのに、事故ったらどうしようと思った。

そうして、あたしがナビ役になり、新庄家に近い順で千晶のマンション、まどかの家へと到着し、二人が明の車に乗り込んだ。
最後にまどかが合流してから、車内は実に賑やかだった。

自宅のマンション前で拾った千晶は、車に乗り込む時「杏子の友達の、中田千晶です。今日はよろしくお願いします」と明に軽く会釈と共に軽く自己紹介をした。
明は「ん、斎藤明です。千晶ちゃんか。前に、こいつと俺達のライブ来てくれたよね?背が高くてキリッとしているから覚えてたんだよね」と言うと、千晶は「えぇ…まぁ…そうですね」と言葉を濁して後部座席に座った。
それから車を発進させると、武田邸に向かうまであたし達三人はほとんど喋らなかった。あたしが世間話を振っても、千晶は「うん」とか「そうだね」としか答えない。
無理矢理誘ってしまった形になって、もしかしたら千晶はあまり乗り気じゃないかもしれない。
あとで謝らなきゃ、と思った。

ちなみにまどかと千晶の家同士の距離は、車で15分ぐらいで、あたし達の通っていた高校に割と近い。二人は学区の関係で出身中学は違うが、やはり歩いて行ける距離にあるからあの高校を受験した、と言っていた。
冬期間、バスとJRで一時間半かかって通学していたあたしからすると、羨ましい話であった。

「Y町の海なんて、あたし行った事ないから初めて〜」

今はあたし達が住んでいる街を出て、ひたすら目的地へ続く海岸線を走っているところだ。
晴れ渡った青い空に、いくつもの白い入道雲が浮かんでいる。

明に「同い年なんだから、タメ口でいいよ」と言われたまどかは、すぐに砕けた口調で話した。
なんとまぁ、人見知りを知らない社交的な子だ。
思った事をすぐ口にする子供の様な天真爛漫さを持っているが、決して相手が不快に思う事は言わない。
場の雰囲気や相手がこれを言ったらどう思うかを、瞬時に一考してから話しているのだ。
見た目はどこにでもいる、流行に敏感な、今時のキャピキャピした女の子だが、実は切れ者だと言う事をあたしは知っている。
そう言えば、高校時代も根詰めて勉強しなくても、テストでいい点を取っていたな。
まぁ、明の見た目が男前な事も、彼女をご機嫌な理由の一つに挙げられるが。

今日の千晶の服装は、紺に白のボーダーが入ったTシャツにカーキ色のだぼっとしたハーフパンツ、腰には薄手のパーカーを巻いている。
一方のまどかは、つばの大きめな麦わら帽子を被っていて、まず最初にそれが目を引いた。
可愛らしい外国の女の子がプリントされたTシャツに、白地に模様が入ったロングスカートを履いていた。
二人とも既に水着を着ているので、Tシャツの首の後ろからホルターネックの紐が見えている。

「明くんって、やっぱりフェニックスでメジャーデビューしてプロになりたいって思ってるの?」

後部座席で千晶の隣に座るまどかが、身を乗り出す様にして明に訊ねた。
初対面から約2時間でもう【明くん】である。
ただその興味深い質問に、あたしは思わずハッとし、窓の外の景色ばかり見ていた千晶も、目線をこちらに向ける。

「んー…まぁ、もちろんそうなれたら良いな、とは思ってるよ?」

「じゃあ、もしそうなったら、大学とか辞めてバンドに専念するの?」

「ん〜。確かにフェニックスでメジャーデビューするのが一番いいさ。
けど、実際に音楽で成功するなんて、一握りの連中なんだ。
どんなに頑張っても、芽が出ない奴らなんかゴマンといるのがこの世界だよ。はっきり言って、フェニックスもそうかもしれない」

明のサングラスの奥の目が、鋭く光った様な気がした。やはり一ファンとしては、フェニックスにはもっともっとたくさんの人にその音楽を聴いてもらいたいし、その存在を知ってもらいたい。行ける所まで、とことんどこまでも走って欲しい。
だけれど、やはりフェニックスも、明が言うところの「芽が出ない連中」に過ぎないのだろうか?
確かに素人のあたしにも、メジャーデビューもそれから先売れ続ける事も、まるで砂漠に落ちた十円玉を探す様に難しい事はわかっている。
どんなに努力を重ねて、人気が出たとしても、運がないばかりにくすぶっているバンドだって、それこそ星の数ほどいるだろう。

「だからさ、バンドがうまくいかなかった時の保険の為に、俺は大学に入ったんだ。保険って言ったら、なんか聞こえ悪くなっちゃうけど。大学を卒業して、まぁ一般企業に就職する。仕事しながらでも音楽は出来るしね。自分の好きな事をする為に学歴と仕事を手に入れる、って言った方がわかりやすいかな」

明がそう言ってるのを聞いて、あたし達三人は素直に感心した。
明が、そこまで考えていたのは正直予想していなかった。ただなんとなく、高校を卒業してすぐ就職するのはかったるいし、大学は遊びに行ってバンドやりながらいつかプロになれればいいや、と言った甘い考えなのかなと思っていたから。

「…まぁ、確かに普通に生活していくだけでも、お金ってかかるしね。今は実家で、親の世話になっているから、普段はあまり考えないけど」

千晶がため息を吐きながら言った。

「でしょ?音楽漬けの人生でさ、でも結局全然売れないで、気が付いたら年齢も三十路越えてて、職歴も誰でも出来るアルバイトしかない…なんて人、俺結構見てきてるからさ。それが悪いって言ってるんじゃないんだよ?人それぞれなんだし。でも言っちゃ悪いけど、俺はそうなりたくないからさ」

明はそう言った後で、「まぁ、俺んちも正直、金持ちとは言い難い家庭だしね。卒業したら、音楽はやってもいいから、お願いだからどっかに勤めて毎月給料もらってきてくれって親に散々言われててね」とわざと明るい口調で言って笑った。

「明くんって、意外に堅実って言うか、しっかりしてるんだね〜…」

まどかは腕組みをして、難しい顔をしていた。
また赤信号に引っ掛かり、明は車のブレーキを踏む。

「…まぁ、フェニックス自体もどうなるかわかんないしね。メンバー入れ替えくらいは、あるかもね。
たかひ…琉斗は大学卒業したらバンド辞めるし、慎も実家に居る親が高齢で心配らしくて、卒業したら地元戻ろうかなぁって言ってるし。海は…何考えてるんだろうなぁ、あいつ」

「みんな色々あるんだねぇ〜」

まどかが感心した様に言った。
不意に明があたしの頭を撫でた。

「それに、今は音楽をやりたいけど、これから先、他にやりたい事や守るものが出来るかもしれないしょ?」

その様子を、明はまるで見せつけていると言わんばかりに、得意気に二人に振り返る。
千晶は呆気に取られ、まどかはまた悲鳴に近い声を上げた。

「じゃあさ、じゃあさ、杏子はどうするの?」

「え…?」

いきなり話の矛先が自分に向けられ、あたしはギョッとした。

「だ・か・ら!もしフェニックスがメジャーデビューしたとしたら!そしたら明くんは東京に行く事になるじゃん。杏子はどうするの?一緒に行くの?」

明がここまで言っていても、まどかの頭にはフェニックスにとってベストな未来予想図しかないらしい。
物事を悪い方につい考えてしまうあたしには、そのポジティブさも羨ましかった。

「明が、デビューして東京かぁ〜…」

男の子と交際するのが、初めてのあたしにとっては、そのメールのやり取りや毎回のデートにいっぱいいっぱいで、そんな先の事まで考えている余裕がなかった。
でも、あたしとしてもフェニックスは是が非でもプロになってもらいたい。いくらこれからの人生がどう転んだとしても、今の段階での彼の夢は音楽で成功する事なのだ。
それは、付き合う前から彼と会話やメールをした上で理解しているつもりだ。
明は本当に、音楽とフェニックスと言うバンドが好きなのだ。

「あたしは…やっぱり、フェニックスにはプロデビューして、成功してもらいたいと思ってる。その為の応援はなんだって…したい。まだ、覚悟は出来ないけど…明について、東京に行くと思う」

そうは言っても、生まれ育ったこの街や家族やまどかや千晶と離れ、東京という新天地で明と生活していく、なんて今この瞬間も実感が湧かない。全然リアルじゃないのだ。
でも、実際にそうなったら、迷わずあたしはそうすると思う。
明と、離ればなれになりたくない。

「きゃーこの二人ってば、超純愛ー!」

まどかがまた大声を出す。千晶もそれを聞いて、困った様に笑った。
車内がすっかり盛り上がったお陰で、信号が青に変わった事に明は気付かず、後ろの車にクラクションを鳴らされた。

「やべ。…なんか、嬉しかったからつい」

明は隣の助手席にいるあたしを優しく見つめ、車のアクセルを踏んだ。
やっと目的地の海水浴場に近くなってきたようで、さびれた案内の看板が見えた。
それからややしばらくして、やっと目的地の海水浴場に辿り着いた。今の時刻は午後12時20分。
辺りを見回すと、海の家が十数件ずらりと並んで建っている。
駐車場は砂浜のすぐ近くにあり、思ったより駐車スペースがかなり広い。
それでも夏真っ盛りであるこの時期は、たくさんの台数の車が停まっていた。
明も空いている箇所に車を停め、あたし達は外に出た。これまで長い時間、運転してくれた明に、あたし達は「ありがとう」「お疲れ様」とお礼と労いの言葉を掛けた。
明も2時間以上も車を運転していたのだから、きっと疲れただろう。

「俺、電話するからさ。みんな着替えてきたら?」と明が言い、あたし達三人は近くにあった個室型の簡易シャワー室で着替えをする事にした。
着替える、と言っても既に私服の下に水着を付けているので、あまり手間はかからないのだが。

「杏子と明くんって、マジでラブラブじゃ〜ん」

シャワー室に向かいながら、まどかが心底楽しそうな笑顔を浮かべて、肘であたしの肩をつつく。
はぁ、これまた反応に困ってしまう。

「そうかな…?」

「そうでしょ〜。だって、明くんがデビューしたら、一緒に東京行って彼を支えるんでしょ〜。マジ健気〜。明くんの言ってた、守りたい存在って杏子の事じゃん」

「う〜ん…。ただ、あたしが明と離れたくないって言うのもあるけど…」

「バンドマンは遊び人が多いって聞いてたから、ちょっと心配してたけど、明くんなら安心だね。ホント杏子にマジ惚れって感じだもん。ねっ千晶?」

まどかに話を振られて、千晶はこちらの方を向かず、口元だけ微かに笑みを浮かべた。

「うん…。そうだね。それよりも、他の人達待ってるんじゃない?早く着替えようよ」

と話を切り替えると、千晶はシャワー室の方を軽く指差す。
やはり千晶は不機嫌な様子だ。
そしてあたし達は各々個室に入って素早く着替え終わると、近くで携帯電話を見て待ってくれていた明のところに行った。
水着になったあたし達の姿を見るなり、明はピュゥと口笛を吹いた。

「マジ、三人共超可愛い…」

そう言う明も、肩にさっきまで着ていたアロハシャツを羽織ってはいるが、上半身は裸であり、下は膝丈ぐらいの長さの黒い海水パンツだった。
異性の、しかも好きな人の裸なんて見るのは初めてで、あたしはなんだか気恥ずかしく、頭がくらくらした。

「三人共って、なんかすごいリップサービス的な感じ〜。正直に、杏子の水着姿が可愛いって言いなよぉ」

まどかがそう言って口を尖らせるも、明は「いや、まぁそうなんだけどさ、三人共可愛いのはホントだから」と弁解する。

まどかの着ている水着は、人気水着メーカーの最新作のビキニだ。ピンクとブルーの配色が鮮やかなペイズリー柄で、彼女の雰囲気によく似合っていて、一層大人っぽくさせていた。
千晶は、黒地に小さめの白いドット柄のシンプルなデザインのビキニだ。
やはり千晶はスタイルが良いとつくづく思った。
痩せてはいるが、ずっとスポーツをしていたからか不健康なイメージは一切なく、程よく筋肉がついている。長い足とくびれたウエストが、惜しみもなくされされている。
真っ直ぐに伸びた綺麗な鎖骨が窪みを作り、流れる汗がそこに溜まっているのがわかった。

一方のあたしはと言うと、二人と同様ビキニなのだが、はっきり言って似合っているなんて自信は微塵もない。
こんな事になるのなら、もっと早くダイエットするべきだった、と後悔もしていた。
買った水着も、デザインや色ではなく、給料日前で財布が寂しく、値段で選んでしまった。
白地にハイビスカス模様が入ったもので、ショーツにもフリルがついているので、お尻回りをカバー出来るのも、購入の決め手になった。やはりショーツ1枚で人前に出るのは恥ずかしい。

「あ、それでさ、他の奴らもう来ててあっちにいるって。行こう」

と明は言い、あたし達はあまり人気のない岬の近くまで足を運ぶ事になった。
まどかが「あたし達は後に続くから、明くんと歩きなよぉ」と言ってくれ、あたしは明と並んで歩く。
明は小声で「水着、よく似合ってる」と囁くとあたしの手を握ってくれた。