恋愛に対しては奥手な方だと自覚している。

初恋は、あんな状況にも関わらず中学二年生の時に経験した。
相手は隣のクラスの、未成年ながらに飲酒・喫煙し、誰彼かまわず喧嘩をする、いわゆる【不良少年】だった。当然、相手にされる訳もなく遠くから眺めているだけで終わった。
風の噂では、その彼は中学校卒業後に少年院に入ったらしいが。

高校は共学校だったが、これと言って特別好きな男の子が出来ないまま、三年間を過ごした。
ちょっといいなと思った子もいたと言えばいたが、必ずと言っていい程似たような派手な彼女を連れていた。

友人のまどかは、高校一年生で初めての彼氏が出来てからは、定期的に色んな男の子をとっかえひっかえしていた。
どれもこれも相手は、校内・校外に問わず背が高くハンサムでスポーツマンで優しく話も面白い、そんな素敵な子ばかりだった。

「恋愛より今はバスケがしたい」が口癖の千晶も、奥手と言うか、男の子にあまり興味がないタイプだった。
でも高校三年の時に、男子バスケ部のキャプテンといつの間にか付き合っていた。
二人は元々仲が良く、千晶はずっと友達だと思っていたが、どうやら彼は違ったらしい。
でも相手が東京の大学に進学して、あっけなく自然消滅。それでも千晶はあまり未練はない様子で、「まぁ元気にしているならそれでいいよ」とさばさばとしていた。

あたしはそんな二人を、いつも後ろから指をくわえて見ているだけ。
好きな人にどうやってアプローチをしたらいいのか、そしてその人といい雰囲気になり、交際に持ち込むにはどうしたらいいのか−…さっぱりわからない。

そう言えば明に手紙を渡す少し前、まどかが「大学の友達と何人かで、ご飯食べに行くんだけど杏子も来ない?誰か女の子を紹介してくれってうるさいんだ」と誘ってくれた。

既に明の事しか頭に入っていなかったあたしは断った。でも、今思えばああいう場に参加して、少しでも男の子と接する経験を積んでおくべきであった。

明から手紙を渡したが、その返事がなかなか来なかった時、すっかり気を落としたあたしはまどかからの男の子の紹介を一度は頼もうと思った。

だけど−…実際に行動に移さなかったのは、本心ではそんな【出会い】の仕方は望んでいなかったから。
友達の紹介とか、合コンとかではなくて、自分が出会って、自分が【いい】と思った人と付き合いたかった。
いや、紹介や合コンだって立派な出会いの場で、そこでいいと思える人だっているじゃないかと言われればそうなのだが。
自分の恋人は、自分で見つけたかった。

高校三年の二学期の終業式間近に起きた出来事を思い出す。
同じクラスに、宮西と言う男の子がいた。下の名前は覚えていない。
見た目はまぁ悪くはないのだが、背が低く物静かであまり目立つ方ではなかった。いつも同じようなおとなしい男の子と二、三人で過ごしている、そんなタイプだった。

その宮西君が、あたしの事をよく見ている、とクラスの人間関係に目敏いまどかが言い出したのだ。

「あいつ、いつも杏子の事見てるよね。好きなんじゃないかなぁ?」

まどかはとても楽しげに冷やかした。内心、面白がっていた様な気がする。

「確かに見てる気はするね。地味だけど、いい奴そうだしいいんじゃない?」と千晶も賛同する。

確かに宮西君からの視線は、あたしも感じていた。
宮西君は、真面目で優しくて誠実そうだ。
彼みたいな人と付き合えたら、きっと不器用ながらも大切にしてくれるだろう。
地味で平凡なあたしには、ああいうタイプが合っているのかもしれない。

でも…どうしても、彼を恋愛対象に見る事が出来なかった。
理由は簡単で、タイプじゃなかったのだ。
それからは、やいやい言う二人を尻目に彼を無視する様になった。

そしてある日の放課後。
補習で帰りが遅くなったあたしは、昇降口で宮西君を見た。
彼は帰宅部のハズだし、どうしてこんな時間にまだ学校にいるんだろう?他の補習でも受けていたんだろうか?

周りには他に生徒はおらず、宮西君とあたしの二人きり。
今まで散々無視していたので、正直気まずくて早々にこの場を立ち去りたかった。
でも、宮西君があたしに軽く会釈をするので、仕方なくあたしもそれを返した。
彼は真っ直ぐにあたしを見つめると、

「じゃあ、また明日」

それだけ言って、あたしを昇降口に残し出ていった。
あたしは何も言えず、そこに立ち尽くして、彼の後ろ姿をしばらく見ていた。
それから彼があたしを見ている、なんて事はなくなった。
まどかや千晶はしばらくあたしと宮西君の動向を気にしていたが、やがて何も言わなくなった。

そして終業式を迎え、冬休みに入り、三学期は卒業試験が終わると自由登校なので、ほとんど彼の姿を見なかった。卒業式の日も、お互いに話し掛けるなんて事は、とうとうないまま終わった。

「じゃあ、また明日」

ふとあの日の宮西君を思い出した。
彼は確か、市内の大学に通っているハズだ。
そう遠くない距離にいる。
彼はどうしているんだろうか?
もし彼があたしに告白をしてくれたら−…あたしはどうしていただろうか?
付き合っていただろうか?

そんな今考えてもどうしようもない事に思いを巡らせた深夜、あたしは自室のベッドで明からのメールを待ちわびて、携帯を握りしめながら眠りについていた。
気づけば暦は7月に入り、季節は夏になっていた。
あたしが住むこの街は、一年の半分近くは雪で覆われているにも関わらず、ここ最近は夏も異常に暑かった。
それも、北国の夏らしいカラッとした暑さではなく、ジメジメと湿気が多く、不快指数の極めて高いそれだった。

ある日の夕方。
いつも通りバイトを終えたあたしは、地下鉄A駅の近くにあるドーナツ屋の喫茶ブースに、明と向かい合わせに座っていた。

あまりの暑さで、食欲がないあたしはアイスコーヒーだけを注文した。
意外に甘党な明はドーナツを三個続けて一気に食べ、やはり大好きなコーラを飲んでご機嫌のご様子。
よく太らないなぁ、と感心してしまう。

「もうすぐ学校もさ、夏休みになるから、そうしたら色々遊びに行こうぜ。海とか、キャンプとかさ」

「うん…」

初めて二人で会った時に比べると、あたしに対する明の口調は、ずいぶんぞんざいな、いや男らしいものになっていた。
たまに二人でいる時に、明の携帯に友人やバンドのメンバーから電話がかかってきて、それらに応対する口調と全く同じものだった。
本来彼は、こういう口調の人らしい。
最初はあたしに気を遣って優しい話し方をしてくれたんだ、そしてあたしにも、くだけたそれになっている。
二人の距離が縮まってきた様で、嬉しかった。
ただ、いまだに明のあたしへの呼び名は「杏子ちゃん」のままだった。

「俺達のバンドって、意外に皆仲良いからさ。こんなにしょっちゅうプライベートでつるんでるバンドなんてなかなかねぇよ?
今年も色々楽しむつもりなんだ。だから杏子ちゃんも一緒にさ」

「そうなんだ。楽しそうだねぇ」

意外にインディーズバンドのメンバー同士って言うものは、ビジネスライクな関係が多いらしい。
職場の付き合いと同じで、バンドに関係する事以外は一緒にいない。
仕事仲間とは四六時中一緒にはいたくない、と言う考えなのだろうか。
かと言ってフェニックスがプロ意識皆無な、仲良しグループがやるお遊びバンドと言う訳では決してない。
そうじゃなかったから、地元でこんなに人気が出るハズがないのだから。

「……なんかあったか?」

「え?」

やけに神妙な顔をした明が、あたしを見る。
あたしが元気のない様に見えたのだろうか?

「何か悩み事でもあるのかと思って…」

明は視線をテーブルに落としたまま、呟く様に言う。
心配してくれているんだ。

「ううん。別に何もないよ。どうして?」

「いや、ならいいんだが…」

「あ、ごめん。今日、親に早く帰ってこいって言われてたんだ」

「え、おい…」

そう言って半ば無理矢理に会話を終了させ、あたしは席から立ち上がる。
二人分のトレーを返却口に片付け店を出る。
明は慌ててコーラを飲み干すと、後をついてきた。

「送るよ」

初めて二人で会った日と全く同じで、あたしが帰る時はバス停まで明は一緒に来て、バスが来るまで一緒に待ってくれる。
いつの間にかそれが、当たり前の事になっていた。

二人でバスを待つ時間も、ほとんど会話はなかった。
そして数分経つと、バスがやってきた。

「じゃあ、また家に着いたらメールするね。バイト頑張ってね」

あたしが笑ってそう言うも、明はまだ心配そうな顔をしていた。

「…なんか困った事があったんなら、遠慮なく俺に言えよ?電話でも、メールでも構わないから」

「ん。わかった。ありがと」

それだけ言ってバスに乗り、明と別れた。

…本当は、明に話したかった。相談したかった。
だけど、これ以上心配をかけたくなくて言えなかった。
あたしは明の【彼女】ではないのだから。
あたしは例の掲示板サイトの、フェニックスのトピックを見てしまったのだ。

以前、何の気なしに明にサイトの事を聞いたら、「あんなもん見なくていいよ。大抵、書いてる奴の憶測や妄想ばっかだから。俺もフェニックスの他のメンバーも見ていない。そんなくだらねぇもんに時間を割く程、俺達も暇じゃねぇしな」と言われた。
なので、これ以上あのサイトについて言及出来なかったのだ。
しかし、どうしても気になって仕方なかった。

もしかして雛妃みたいに、あたしの事も掲示板に書かれているんじゃないか−…。

ファンが皆、純粋にそのバンドの音楽が好きな訳ではない。いや、もちろんそういう人達が大多数を占めているのだが。
中には、メンバーと個人的に連絡を取りたい、あわよくば交際したいと言う不純な動機の輩もいるのだ。…それは今となってはあたしも一緒か、と自嘲した。
ましてはファンのほとんどが年頃の若い女性、とくれば一番の関心事は男女の色恋沙汰に決まっている。
それはフェニックスのファンだって、例外ではない。

そう言えば、明は「あれを見て、見て良かった!って思った事ってある?」とか「あんなの公衆便所の壁に書かれている落書きと一緒だよ」とも言っていた。

いやはや、見て良かったと思うどころか、この上なく後悔したし、内容も公衆便所の落書き以下であった。

【明のヤツ、いつの間に新しい彼女出来てたよ】

【あの茶髪のボブカットの子だよね?ライブで見た事ある】

【またファン!?節操がないってまさにこの事だね】

【あの二人、この間N駅近くのラーメン屋にいたよ】

【やっぱり付き合ってるんだ。ショック。】

【あの子、この前のMARSの時出待ちして明に手紙渡してたよね】

【私もそれ見た!なんか必死過ぎて怖かった】

【って言うか、あの子そんなに可愛い?明と釣り合わないよね】

【不細工じゃん(笑)性格暗くて悪いのが顔ににじみ出てる(笑)】

【明、趣旨変えしたんじゃない?ブス好きだったんだね】

などと言った書き込みがされていたわけである。
これらを書いたのが、本当にフェニックスのファンならば、実に暇な連中である。
第一、あたしと明は付き合ってはいないし、そんなに気になるのならば、そのラーメン屋で見かけた時にでも、あたしか明に直接聞けばいいじゃないか。
そんな度胸もないくせに、こんなインターネットの中では水を得た魚の様に誹謗中傷する。
なんて卑怯で愚かなんだろう。
…可哀想。そんなんだから、明に選ばれないんだ。
あたしの事は、なんて言われても構わない。
そうやってずっとパソコンや携帯の向こうで吠えていろ。

…ああ、ダメだ。
そう気丈に思っていても、そう振る舞おうとしても、どうしても思い出してしまう。
最近は思い出す事なんて、ほとんどなかったのに。
またあの日々の記憶が戻ってくる。
あたしは小学校5年生から中学校を卒業するまで、学校でいじめにあっていた。

何故いじめられたかなんて、理由なんて覚えていない。ただ、クラスではどの子も必ず一回はいじめられる時期があった。
その標的になる順番があたしにまわり、それが次の子に移ることなくいじめは続いた。
もしかして、あたしが最後の一人だったのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。今となってはわからない。

だって内向的で極度の人見知りで、勉強は出来ず運動は大の苦手、友達もおらずいつも一人でいて、クラスでもいるかいないかわからない、空気の様な子だったから。
みんな、あたしの存在を忘れていたか、最初から意識してなかったんだと思う。
最後に誰をいじめるかって話になって、もう誰もいないんじゃないか、いやいやそう言えばあいついたじゃん、ああ、あいつね、そういやいたね−…。

最初はあたしが「おはよう」と挨拶しても無視されるぐらいだった。
それをやるのはクラスでも一部のグループの女子だけだった。
だが、次第に状況はエスカレートし、すれ違いざまに「キモイ」と言われるようになり、いつの間にかクラス中の生徒からそう言われる様になった。

中学校にあがると、いじめはますますひどくなった。
「キモイ」「臭い」「バイ菌」と毎日言われた。
トイレに閉じ込められたり、教科書や上履きを隠されたり捨てられたりした。
冬の下校途中にいじめっ子に遭遇したものなら、マフラーや手袋を奪われ、水溜まりに投げられたりもした。
体育の授業の時は、わざと足をかけられて転ばされたり、ボールを頭にぶつけられたりした。

中学一年の時、溜まりに溜まって担任の女教師に相談をした。
事なかれ主義の担任は、「いじめられる側にも、原因はあると思う」と言い出した挙げ句、「あなたもみんなと積極的にコミュニケーションを取らなきゃ」と何故かあたしが説教された。

そして数日後、いじめっ子達に「おまえ、先公にチクっただろ」などと言われ、数人から代わる代わる背中を蹴られた。

ママにもそれとなく言ってみたが、ママは何故か「恥ずかしい」と言った。
「瞬介は友達もたくさんいて、この前学級委員にも選ばれたと言うのに」とため息をついた。あたしが何かネガティブな事を言うといつもこうだ。
「いじめられたって言ったって、ちょっとからかわれただけなんでしょう?ママにも似た様な事あったわよ。すぐにおさまるから、負けないで頑張りなさい」と肩を叩かれた。
まぁあまり心配をかけたくなくて、いじめの実態を詳しく話さなかったものだから、ママは大した事ないと思ったのかもしれないが。

どいつもこいつも、大人は宛てにならない。
みんな世間体ばかり気にして、自分の保身に必死で、どうか面倒事が起こらないでくれと思いながら日々をやり過ごしている。

こいつら、遺書に誰に、どんないじめを受けたか洗いざらい書いて、あたしが自殺でもしたらどう思うのだろう?
そしてそれが、ニュースに取り沙汰されたら、どうするのだろう?
あの気が弱く、お調子者の男子達に騒がれて授業を中断しただけで泣く担任の事だ、「私のクラスにいじめがあるなんて信じられません、本当に生徒みんな、仲が良かったのに」と言いながら厚化粧をボロボロにして泣きわめいて被害者面をすることだろう。

パパやママは?
パパは絶対に、どうしてこんな事になる前に気づかなかったんだ。俺は仕事があるから、家庭の事はお前に任せてきたんだ。こんな事になったのは、全部お前のせいだ−と激しくママを責めるだろう。
ママはママで、あなたが子供に感心がないから、杏子はこんな目に遭ったんだ。
あなたが子育てにもっと前向きになってくれたら、もっと違う展開になっていたハズだ。
子供達が小学校に上がってから、杏子と瞬介の事を面倒くさそうに扱って−。
そうだ、学校!学校は一体どういう学級運営をしてきたんだ、いじめに気が付かないなんて、いじめをするような凶悪な生徒を野放しにするなんて、とんでもない学校だ、許さない、この人殺し、訴えてやる−…とヒステリーに拍車がかかり、次から次に結果の原因を自分以外の誰かに当てはめようとするだろう。

まぁ結果的にあたしは死ななかった。
でも、どうしても耐え切れなかったらそれを実行しようとも思った。
さてどのくらいの確率であたしの予想は当たるだろうか−と考えながら、まさに死ぬ気で受験勉強をした。
その頑張りは功を成し、学力ランクを二つ上げて、家からバスとJRで一時間かかる公立高校に合格した。
家から遠い分、出身中学からはあたし以外は誰も進学しなかった。

周りはいじめられっ子のあたしを誰も知らない人間ばかりな事、そして何よりやっとそのいじめから解放された事に幸せを感じ、高校に入学してすぐの下校途中、JRの中で密かに嬉し泣きをしたのを覚えている。

この事はまどかや千晶には話していない。
以前一回だけ「杏子って、小中学校で仲の良い友達はいないの?」と聞かれた事がある。
その時は「一人だけすごく仲の良い子がいたが、親の都合で県外に引っ越してしまった」と言ってごまかした。それを二人は納得した。

…あーあ、こんな事を思い出すなんて。
明と別れて帰宅したあたしは、何をする気にもなれずまた自室のベッドで横たわっていた。
気分転換がてら、シャワーでも浴びてシャキッとしてこよう。
そう思った瞬間、携帯が鳴った。
開いてみると、明からのメールが届いていた。
そう言えば、家に着いてかれこれ一時間近く経つのに、明にメールを送っていなかった。
やっぱり心配なんだ。あたしとしてはアルバイト中にも関わらず、ちょくちょくメールを送る明の勤務態度の方が心配なのだが。
そこには、こう書いてあった。

「もう家に着いたか?来週のライブなんだけど、無理して来なくてもいいから」

これ以上明に気を揉ませてはいけない。明には、来週のライブだけに集中してもらいたい。
とりあえずあの掲示板の事は言わないでおこう。
あたしはもちろん明のファンでもあるが、それ以前に、フェニックスの曲が好きでフェニックスのファンなのだから。
何を言われたって、中傷されたって、やましい事はない。堂々としていよう。

そう思いながら「さっき家に着いたよ。来週のライブは行くよ。明も眠いだろうけどバイト頑張ってね。これからお風呂入ってくるね」と明への返信メールを打っていた。
そうしてライブ当日。
今日のフェニックスのライブは、ライブハウス【ブルーキャッツ】で行われる。

ここは最寄りのJR駅から徒歩15分ほどの距離にある、閑静な住宅街の一部に溶け込んでいて、最初はなかなか場所を見つけられなかった。
【ブルーキャッツ】は元々は自家製焙煎が売りの喫茶店だったが、音楽好きのオーナーが店の老朽化に伴って改築する際に、地下にライブスペースも併設したのが三年前。
それからは定期的にライブ開催希望のバンドやアーティストに格安で場を提供しているらしい。
【ブルーキャッツ】のホームページを閲覧した際、オーナーの顔写真も見つけたが長い髭が特徴の初老の渋い男性だった。
写真では、黒い皮ジャンに皮パンツを着こなし、サングラスを掛けて大型バイクにまたがっていた。
ホームページには「ライブスペースレンタル希望のお客様、音楽のジャンルは問いません。この老いぼれジジイに、まだまだたくたんの音楽があるという事を教えてください」とも書いてあった。
失礼ながらそのお歳でも新しいもの・知らないものでも、いいものならなんでも取り入れて吸収しようとする、何とも気持ちの若々しさを感じた。あたしもこんな風に年を取っていきたいなぁ、と少し思った。

あたしは迷いながらも、【ブルーキャッツ】にたどり着いた。
あたしは明にチケットを予約してもらっていたので、受付に立っていた女の子に名前を言って代金を払い、チケットをもらう。
この彼女に、なんだか見覚えがあった。
小柄で色白、さらさらとした栗色のロングヘアー。
目鼻立ちがはっきりとした、人形の様な顔をしている可愛らしい女の子だ。

前回の【MARS】の時も、彼女がフェニックスの物販の売り子をしていたのを思い出した。
ちなみに物販とは物品販売の略で、インディーズバンドの場合はライブホールの脇なんかで自主制作CD、缶バッチやタオルなどを売っている。
こんなどうってことない商品でも、タオル1枚2000円ととんでもない値段だ。
しかし、インディーズバンドは何かと金がかかり、運営も赤字がほとんどだ。
音楽活動にするにあたって、物販の売り上げはバンドの大事な収入の一部。
あたしもお布施だと思い、今までにフェニックスの自主制作CD四枚と、なんてことない白タオルに【phoenix】とロゴが入った特製タオルを購入した。
そのタオルは、今は自宅の洗面所の手洗い用になっているが。

この【ブルーキャッツ】のライブホールは、収容人数が80人前後と、ハコにしたら小さい方だが、その分間近で演奏している彼らが見られる。
それに、今日は記念すべきフェニックスの初のワンマンライブだ。それが出来る様になったと言う事は、彼らが人気・実力を確実につけている証拠だ。
あたしは嬉しかった。

ライブホールに入ると、既に満員に近い人数の観客で埋め尽くされていた。
喫茶店と併設になっているライブハウスと聞いて、あたしはもしかして座ってコーヒーでも飲みながら優雅にライブを楽しめるのかと少し期待したが、甘かった。
地下のライブホールは地上の喫茶店とは完全に切り離されており、他のライブハウス同様立ち見形式だ。
まぁ、そもそもフェニックスはそんな事が出来るバンドではないが。

そしてあたしは、そこにいる観客の、言わばフェニックスのファンである、何人かの女性の、鋭い視線を感じた。
やはりみんな、あの掲示板を見ているんだろうか?
あたしは別に悪い事はしていない。明とはただの友達で、付き合っているなんて噂は事実無根だ。
そう思って気持ちを強く持ち、堂々としていた。

ハッとまた視線を感じ、あたしは振り返る。
そこに、もちろんいた。
絶対に来ているだろうと思っていた。

雛妃だ。

ホールの最前列とは逆側の壁際にもたれる様にして立っていた。
両隣には、取り巻きらしきあの二人−あの掲示板によれば痩せぎすの方をアユミ、小太りの方をリナと言うらしい。これまた雛妃同様、本名かどうかはわからないが−も従えて。

雛妃は、腕組みをして不敵な笑みを微かに浮かべて、あたしを見ていた。
約一時間半にわたる、フェニックスのライブが終了しようとしていた。
彼らが結成してから初のワンマンライブと言う事もあり、メンバーも観客もいつも以上に盛り上がっていた。
あたしはホールの真ん中あたりで演奏を聴いていた。ライブ中に明があたしに気づいてくれたらしく、何回もあたしと目が合い、微笑んでくれた。
そう言えば、今日のバイト上がりに携帯を見ると、明から「今日のライブが終わったらすぐ楽屋に来て。」とメールが来ていた。
楽屋はステージ袖にある小さな部屋らしいが、まだまだ周りには興奮冷めやらないファンで溢れていて、誰も帰る気配がない。
この状況の中、あたしが一人で楽屋なぞ行こうものなら、さぞかし目立って仕方ないのでは−…と考えてまごついてると、ぐいっと腕を捕まれた。
アユミだった。

「悪いね、ちょっと来て」

アユミの真っ黒なアイメイクに縁取られた切れ長の目があたしを捕らえ、かすれたハスキーボイスでそう言った。

「な、なんなんですか?」

あたしが抗議の声を出しても、アユミは「いいから来て」と短く答えるだけだった。
そうしてあたしは【ブルーキャッツ】の建物の脇にある路地裏に連れていかれた。
そこには、リナと−優雅に煙草を吸う様は、まるで外国の女優の様であった−雛妃がいた。

「連れてきたよ」

アユミが二人に声をかける。あたしは、二人のすぐ目の前に立ち尽くすハメになってしまった。
雛妃は吸っていた煙草を、これまた優雅な動作で携帯灰皿にしまうと、頭のてっぺんから爪先まで舐める様にあたしを見た。
吸殻のポイ捨てはしないところからも、彼女の育ちの良さが伺える気がした。

「へーぇ、この子が…」

リナも無遠慮にあたしをジロジロ見る。
間近で見ると、リナの黄色く染めた髪は、根元から黒髪が生えていて、だらしない印象を受けた。
化粧もしっかり施しているが、肌荒れしているのが頬にニキビが目立つ。
ショッキングピンクのタンクトップを1枚で着て、ボトムはデニムのミニスカート、シンプルなデザインのミュールを履いている。
体型が太めな為、その全てを無理して身に付けているんだろうな、と思った。
お腹の肉が、ぽっこりとタンクトップ越しにしっかりと存在を主張していた。

一方の雛妃は、髪をアップでまとめて耳には大ぶりなゴールドのピアス、膝丈の黒いノースリーブワンピースを着ていて、これまた踵が恐ろしく高いゴールドのサンダルを履きこなしている。
シンプルな装いだが、彼女が着ると大人のゴージャスな女性、と言った印象を受ける。

そしてアユミは、前回のライブで会った時は長めの金髪だったが、髪色を変えたらしく黒に前髪の一部分に赤のハイライトが入ったツートンカラーになっていた。
長さも少し短くなっている。
服装は丈の短い派手なプリント柄のTシャツにところどころ擦りきれたダメージジーンズ。
シルバーの臍ピアスがTシャツの裾からチラチラと見え隠れしている。
それを除けば、なんだか千晶みたいな服装だなと少し思った。
アユミも踵のやや高めなサンダルを履いていた。

「……あなた、明と付き合ってるの?」

雛妃が背を屈む様にして、あたしの顔を覗き込み、言った。
あたしを怖がらせない様にと思ってか微かに口元が笑っていたが、視線は冷たい。間近でこんなに美しい女性のこんなに冷淡な表情を見るのは初めてだ。あたしは背筋がゾクリとした。

「……いえ、付き合っていません」

ゴクリと唾を飲みながら、やっとの思いで、そう答える。
雛妃が姿勢を正し、アユミとリナに向き直る。
彼女はきっと、157センチのあたしよりやや高い162センチぐらいの身長だろう。しかしそのヒールのせいで10センチ以上背が高くなっているので、この上ない威圧感をあたしに与えていた。

「ふーん…。でもあんた、しょっちゅう明にまとわりついてるよね?」

「そーゆーの、迷惑だからやめて欲しいんだけど」

アユミに続いてリナが口を開く。

「そんな、まとわりついてるって…。迷惑だって、明がそう言ってたんですか?」

「明はずっと、この雛妃と付き合ってたの!!」


あたしが言い終わるより早く、リナが声を荒げた。
その言葉に、あたしは諦めにも似た衝撃を受けた。

そうだったんだ。やっぱり、明と雛妃は……。
「今はちょっと喧嘩して、たまたま離れてるけど、またすぐヨリは戻るんだから。それを途中から割り込んできて何なわけ?」

アユミもあたしを睨み付けながら、早口でまくしたてる。
そう言えばライブが終わってアユミに腕を掴まれた時、その手の力が思いの外強くて、振り払おうとしたけど出来なかった。
こんな、風が吹いたら飛んでいきそうな細くて薄い身体の一体どこにあんな力があったのだろう。

「あたしは…明とは、友達として一緒にいるんです。だから明が誰と付き合おうが、雛妃さんとヨリを戻そうが、あたしには関係ありません。ご自由にしてください」

生来の気の弱さのせいか、あたしは三人の顔は見れずに、でも精一杯の勇気を振り絞り反論した。

この三人は根本的に勘違いをしている。
三人はあたしが明と雛妃の恋路を邪魔する泥棒猫だと思い込んでいる。
そりゃあ確かに、あたしは明が好きだが、二人の関係は今のところただの【友人】なのである。
もし明が雛妃とヨリを戻したとしても、それは明が決めることであり、【友人】のあたしにはどうこう言う権利はない。
もし実際にそうなったら−今度こそ、この気持ちは断ち切らなければいけないが、仕方ない。
【友人】として個人的に会えなくなることよりも、今日みたいにライブハウスで、フェニックスのギタリストでいる明に会えなくなる方が、あたしには辛かった。

「なにこいつ、生意気!!」

そんなあたしの思いは三人には届かなかった様だ。
リナがまた大声を出した。
その際に唾があたしの顔に飛んだため、手で拭った。

「とかなんとか言って、どうせあんたも、明目当てなんでしょ?
友達だなんだって綺麗事言ってるけどさ、本当は明と付き合いたくてたまらないくせに。あんたの顔を見ればわかるよ」

アユミがおかしそうに笑って言う。
その言葉にあたしの胸は疼いた。必死に抑圧していた本心を、万に一つの確率に賭けた願望を、見透かされた様に感じたから。

雛妃もまた口元だけ笑ってはいたが、目は先程と同様冷たいままだった。
まるで巣にかかった獲物の蝶を、どうやっていたぶろうかと楽しむ蜘蛛のような女だ、と思った。
アユミが更に続ける。

「あんたと明が釣り合う訳ないじゃん。大体あんたさ、新参ファンのくせに、古参のあたし達に挨拶もナシでさ。
前から気に入らないと思ってたんだよ」

アユミのこの完全に相手を馬鹿にしきった表情と態度。
小・中学校とあたしをいじめていたクラスメイトの女子にそっくりだった。

何故あの時あたしは、あいつらに「やめて」と言わなかったんだろう、親や教師が頼りなくても、他に誰も味方がいなくても、何故いじめに立ち向かわなかったんだろう。
あたしの味方になれるのは、あたししかいないのに。

あんな思いは、もう嫌だった。

あたしは真っ正面から、アユミを、リナを、そして雛妃を見据えて言った。

「新参とか、古参とか、同じフェニックスのファン同士じゃないですか。
それなのに、そんな派閥争いみたいな事をしなくちゃいけないんですか?くだらない」

この事については、あたしも以前から疑問だった。
例の掲示板にも、「新規のファンの子は、なるべく雛妃に挨拶した方がいい。あいつに嫌われると面倒だよ」と書き込みがあった。
確かにファンが勝手な行動をして、他のファンやメンバーに迷惑をかけない様に、規制する人は確かに必要かもしれない。
でも、彼女達のやっている事はただの支配でしかない。根本的には学生時代の女子によくある仲良しグループ同士の派閥争いに過ぎない、とあたしは思う。
あたし達のグループに入るんだったら、仲良くしてあげる。でも入らないんだったら−いじめるからね。

「くだらないって…ホントにこいつ、生意気!!」

リナがまた声を荒げた。
あたしはまた飛んだ唾を避けるべく顔を背けた。
さっきから生意気と言う単語を連呼して、リナはあまり頭は良くなく、弁も立たないタイプだろうと思った。
典型的な強い者に媚びへつらう腰巾着。虎の威を借る豚−いや狐だったか。

「へぇ…。意外に芯は強いのね。見直したわ。」

雛妃が、感心した様に目を丸くして言う。
これもあたしを小馬鹿にする為にやっている演技であるならば、大した女優である。
あたしは気にせず続けた。

「確かにあたしは、明のファンです。でも、それ以前にフェニックスのファンなんです。
フェニックスの曲が大好きで、聴くと楽しい気持ちになったり、落ち込んだ時は励まされました。
彼らの曲は、本当に支えなんです。だから彼らが、もっと上のステージに立てる様にと願って、今日もこうしてライブに応援しに来たんです。
他のファンだって、ほとんどの子は、あたしと同じように思っているハズです。それなのに、こんな縄張り争いみたいな…。ファン同士の空気を乱しているのは、あなた達の方ですよ」

「話をすり替えんじゃねーよ!!」とまたリナが声を上げた。
雛妃がアユミに目配せをする。するとアユミは皮のバッグから、何かを取り出した。
彼女が握っているのは…どこにでもある、何の変哲もない文房具のハサミだった。

あたしの髪を切るつもりだ−…。

ハサミの刃が、夜空に浮かぶ月に反射して鋭く光る。

「これはこれは、なんとまぁいい演説だったよ。でもね…二度と明に近付けない様にしてあげるよ」

逃げよう、と思った時にはもう遅かった。
あたしはリナに羽交い締めにされ、身動きが取れなくなっていた。
ゆっくりと、ハサミを持ったアユミがこちらに近付いてくる。
こんな風に、雛妃達に目を付けられ【制裁】を受けたファンは他にもいるんだろう−…とぼんやり考えたその時。

「やめろ!!」

聞き覚えのある声がしたと同時に、黒い影がアユミに体当たりを食らわせた。
身体の細いアユミは悲鳴を上げてもろに吹っ飛び、手からハサミが落ちた。
黒い影が素早く道路に落ちたハサミを手に取る。

明だった。
明が、助けに来てくれた。
中学校を卒業するまで、あんなにいじめられても、誰にも見向きもされなかったあたしなのに。
この時ばかりは、明が本当にあたしの王子様なんじゃないかって、普段なら絶対考えないであろう事を思ったりもした。
それと同時に、やっとこの場を切り抜けられると安堵した。

「…こんな事もあろうかと思って来てみれば…。お前らいい加減にしろよ。この子は俺の彼女だぞ」

明はそう言って、リナからあたしを引き剥がし、しっかりと肩を抱いてくれた。

えっ?
今、なんて言ったの?
この子は、俺の彼女−…。
この子って、もしかして、いやもしかしなくても、あたしの事??
えっ?あたし達ってそうだったの?
あたしが、明の彼女−…?

あたしも二人と同じような顔をしていたに違いないが、それを聞いたアユミとリナは、驚きで口をあんぐりと開け、まるで鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしていた。
それでも雛妃は、眉一つ動かさず、冷ややかにあたしと明を見ていた。
果たしてこの女には、人間らしい感情ってものがあるんだろうか?

「え?え?な、何言ってるの明」

この状況は、リナの頭の中の複雑回路で処理出来る容量を軽くオーバーしてしまったらしい。
目が泳ぎ、話し方もしどろもどろで完全に混乱してしまっている。

「この前の喧嘩なら、雛妃はもう許してるよ?やっぱり明には雛妃じゃないと…」

明に突き飛ばされた形になったアユミは、ゆっくりと老婆の様な動作で立ち上がり、打撲でもしたのか腰を擦りながら口を開く。
その表情は、明によって勢いを削がれて先程までの威勢の良さやサディスティックさが消え失せ、すっかり気弱なものになってしまっていた。
彼女もまた、自分より弱い者にしか強く出れないタイプだろう。そんな所まで、あのクラスメイトだった女にそっくりだ。
自分より強い者には弱く、弱い者には限りなく強い。

「うるせえ!!今俺はこの子が好きなんだよ!!」

明が声を荒げ、あたしを抱きすくめた。
いつものファミレスや公園で、隣や向かい合わせに座って話す以上に、明を感じられた。

明の体温。
明のぬくもり。
明の微かに香る香水。
明の息遣い。
明の心臓の鼓動。

あたしの髪が、明の手に触れている。

その全てを一度に、−しかも予告なしで急にいきなり−感じられて、嬉しいやら驚いているやらで、どうしていいかわからなかった。
あたしの脳内の複雑回路もオーバーヒートしてしまったらしい。ただ目を見開き、立ち尽くしてこの場を見守る事しか出来なくなってしまった。

「それと…雛妃」

しっかりと腕にあたしを抱いたまま、明は続けた。
明に名前を呼ばれ、ほんの少しだけ雛妃の唇の端が動いた。
血の様に真っ赤な口紅で彩られた、形の良いぷっくりとした肉感的な唇だった。

「…確かに今まで、俺やフェニックスを支えてくれて感謝してる。
でも、俺は俺であって、それ以上でもそれ以下でもねぇ。お前の期待には応えられねぇ。
お前の望む様な、お偉いギタリスト様には、決してなれないと思うし、なるつもりもねぇ。
それから…この子の言う通りだ、ファンを管理する様な真似ももうやめてくれ。
あのサイトにこの子の悪口を書いたのも、お前らだろ?
俺達のマネージャー的存在になってくれたのは、助かってるけど、今のやり方は度が過ぎてる。皆が安心して俺達の音楽を楽しめなくなってる。迷惑だ」

「そんな明。あたし達…」

アユミが抗議の声をあげるも、明は顎をしゃくって「帰れよ。これ以上軽蔑させないでくれるか?」と冷たくげに言い放つだけだった。
明がこれだけ言い募っても、雛妃はやはり表情を一つ変えなかった。
その代わりにフンと鼻を鳴らし「…言いたい事はそれだけ?」と言った。

「ああ、俺とお前はもう終わったんだ」

あたしを一層強く抱き締めるながら、明は一言一言ゆっくりと力強く言った。
まるで自分に言い聞かせるかの様に。

「そう…。わかったわ。でも、私は待ってるわよ。
あんたとその子がお別れする日をね。あんたは、私じゃないとダメなんだから」

そう言って、くるりと踵を返すと雛妃はコツコツと夜の路地に消えていった。
アユミとリナも、慌てて後を追う。
三人の姿が完全に見えなくなると、明はあたしから離れた。
先程の大宣言を思い出し、あたしは赤面するわ緊張するわ全身が硬直してるわでてんやわんやな状態だ。
明もそれに気付いているらしく、気まずそうに突っ立っている。
しばしの間、二人の間に沈黙が走る。

「……大丈夫か?」

明がぶっきらぼうに尋ねる。よく見ると、彼の耳も少し赤かった。

「うん…。ありがとう…。助けてくれて…」

明が来てくれなかったら、あたしは今頃アユミの手によって坊主頭にされていただろう。
そしてその様子も、掲示板に面白おかしく書き立てられて、フェニックスのライブにも二度と足を運べなくなっていたかもしれない。

「いや…。ここ最近のあいつらの様子、なんか変だったし。なんかしでかすんじゃねぇかと思ってな…」

「…あたしにはあのサイト、くだらないから見るなって言っていたのに、明も見てたんだね」

なんだか自分で言っている途中で、おかしくなってあたしは吹き出した。

「だって、そりゃあ…!あいつらが杏子になんかするんじゃねぇかと思って調べてたんだよ!!」

明がムキになって答える。
いつものファミレスや公園で見る、年相応の男の子の等身大の表情。
あたしは、これに弱い。

「今…杏子って…」

「あ」

明がしまった、と言わんばかりに口に手を当てる。
勇気を、出して聞かなきゃ。
このチャンスを逃したら、もう一生聞けない様な気さえしてきた。

気弱でおとなしく、いじめられっ子だったあたしが、雛妃やアユミにあれだけ罵倒されても、立ち向かう事が出来たんだ。
あの時の、ただバカにされるがままで我慢して、全てを泣いて諦めていたあたしじゃない。
今なら、なんでも出来る気がした。

「…さっき、この子は俺の彼女だって、今俺はこの子が好きなんだって言った」

「………」

「あれって、本当なの…?いきなり言われたから、あたしよくわかんない。
もう一回ちゃんと言って」

あたしは真っ直ぐ明を見つめて言った。
唇が、肩が、足がガクガクと震えているのがわかる。
嫌だ。恥ずかしい。ここから逃げ出したい−…そんな気持ちはどうしても湧き出してしまう。
「あれはあの場を逃れる為のウソに決まってるじゃん」と言われるかもしれない。
それでも、あたしは、明の答えが聞きたかった。

「あ〜もう!ハッキリ言わねぇとわかんねぇのかよ!」

明がバツが悪そうに、その長めの黒髪をクシャクシャに掻き回す。
その後でニヤリと笑いながら、あたしを見て言った。

「参ったな、こりゃ。なんとも面倒くせぇ女を好きになったモンだわ」

「…え?」

「好きだよ、杏子。…まぁ俺としては、前から付き合ってたつもりだったんだけど、そう思ってたのは俺だけだったみたいだから、改めて言うわ」

「……」

「俺と、付き合ってくれ」

好きだよ、杏子−…。
俺と、付き合ってくれ−…。

すっかり真っ白になったあたしの頭の中は、壊れたテープレコーダーみたいにその二つの言葉だけを何度も反芻した。
もうここまで来ると、脳内の複雑回路がオーバーヒートどころか完全にシャットアウトである。

だって、明が、あたしを好き?
この街の人気インディーズバンド、フェニックスのギタリストの明が、あたしに恋人としての交際を申し込んでいる−…?

有り得ない。
ごく稀に、世の中には有り得ないと思った現象が実際に起こったりもするが、今回ばかりは有り得ない。
例えば、日本の内閣総理大臣に、H県I市にお住まいの大学生・斎藤明さんのお家で飼われている犬のサチちゃんが就任しました−と言うのと同じぐらい有り得ない。

そう思った所であたしの意識は遠のき、次第に全身の力がすぅっと抜け−…

「おいっ!?」

あたしは卒倒しそうになった。が、明がそれを受け止めてくれた。
また明があたしを抱き締めている形になった。

「大丈夫?…死ぬなよ?」

明は呆れた様に笑い、あたしの顔を見つめてくる。
なんだか見ているだけでホッとする、優しい笑顔だった。
雛妃達に呼び出されてから、ずっと極度の緊張に晒されていて、ここに来てその糸がプツンと切れたのだ。

ああ、もうダメ。
力が入らない。
何も考えられない−…でも、これだけは言わなきゃ。
あたしはその問いに答える代わりに、ぎゅっと腕に力を込めて明を抱き返した。
そして、その耳元で囁く。
この想いは、明にしか聞こえないように−…。

「あたしも…ずっと明が好きだった。フェニックスのライブを、初めて見た時から…」

「うん」

「アユミの言う通り、友達なんて体の良い言い訳…。本当は、ずっと明と付き合いたかった−…」

「うん。…しかし俺、こんなにハッキリ告白らしい告白って初めてしたわ」

明が今度はポリポリと照れくさそうに頭を掻く。
何かと動作が忙しない。

「そうなの?だってあたし、付き合った事ないんだもん。ハッキリ言ってくれないとわかんないよ」

「マジ!?嘘だろ?周りの男連中、見る目ねぇな〜…」

「だって…!」

「はいはいストップ」

そう言って、その大きな手であたしの口を塞いだ。

「もう、それ以上言うな。
…ただ、しばらくこうしててもいいか?」

そのままあたしがコクンと頷くと、明が優しく頭を撫でくれる。

「あ」

あたしと明が声を上げたのはほぼ同時だった。
【ブルーキャッツ】のオーナーが、喫茶店兼ライブハウスの従業員用のドアから出てきたのだ。
写真を見るよりずっと若く、背が高くて体格もガッシリとしている。
そのごましお頭でさえも素敵に思えた。
ドアに施錠をしたオーナーは、加えていた煙草に火を付けると、あたし達に向かってウィンクをし、店の傍に停めていた大型バイクにまたがり、颯爽と去っていった。
なんてダンディーなおじさまなんだろう。
明もそう思ったのか、二人で顔を見合わせ笑い合う。
そして、どちらからともなく、また抱き締めあった。

ふと明の腕の中で、あたしは夜空を見上げた。
もう夜の帳は下りきり、雲一つない澄みきった空に満月が浮かんでいる。
まるであたし達を祝福しているかのようだった。

もしかして、今までの人生は辛い事ばかりだったが、それさえも明に出会う為の試練だったんだと思えた。
これからは、もっとより良い方向に進んでいけるハズ−…明と一緒なら。
あの満月の向こうに、素晴らしい未来がきっと待っている様な、そんな気がした。