明日、高篠先生と一緒に笑って恋が始まる。


早く、教室帰りたいな…。

そしてまた先生に声をかける。


「終わりました…」


「……」

先生は何も答えない。


アタシの声、
聞こえてないのかな…。


ふと視線を逸らせると教壇の上に何か難しそうな本が置いてあった。


先生は…あんなだけどとても優秀な先生だ。

それだけはわかる。


なんの本だろう…。

時々先生が持ち歩いているのを見たことがある。


きっと大切な本なんだろう。


アタシはなんとなく教壇のほうへ移動してそっとその本に手を伸ばしてページを開く。


難しそうな化学式やたくさんの先生の書き込み。

それも英語?


「何をしてる?」


先生の声にドキッとする。

急に声をかけられると…
びっくりしてホント心臓に悪い。


「すいません…」

先生はアタシの手元の本を慌てて閉じた。


「雨霧にはわからないだろうね」


なんか嫌味な言い方。

でも言う通りだから仕方ない。


言い返すこともできず黙っていると先生は続けた。


「何年か前に留学先で買った…大切な本なんだ」


「そう…なんですか…」



大切な本。




そう聞いて
なんだか触れてはいけないものに
触れてしまったような気がして自分の行動に後悔した。


















---from 龍之介---

早く、この資料を授業に間に合うように仕上げないと…。

俺は急いでパソコンの電源を入れる。


暗い化学準備室の中、
立ち上がるパソコンの画面だけがぼんやりと明るい。


電気をつければいいのだけれど
それすら面倒くさくてそのまま画面に目を向ける。

資料集を確認しながら画面に化学式を打ち込んでゆく。


ふと。

嫌な予感がした。


今日の実験の準備当番は誰だ…。


それまでは生徒なんて
「生徒」というひとくくりでしか見ていなかったけれど

2年2組の担任となり
その「彼女」の存在を初めて知った。


「彼女」はそれまでの
ひとくくりにしていた生徒とは違った。


俺は「彼女」が当番でないことを
祈りながら当番表を書いてあるノートを取り出す。


そしてノートにある日付と名前を見てため息をつく。


「やっぱり雨霧 葵か…」


ノートをパタンと閉じる。




どちらかと言えば彼女は苦手なタイプだ。


いつも俺の側に寄ってくるような女子生徒とは違う。

一線引いて俺を見ている。

まるで本当の俺を見透かしているように。


俺はいつも虚無感の中、
毎日を過ごしている。

正直、別に好きで教師になったわけじゃない。


親が教師だったから俺も当然なるんだと思っていただけだった。

そしていざその立場になってみるとなんの意味も感じない。


でもいまさら方向転換する、
という気もなく。


それは

ただ親の敷いたレールの上を
走ってきただけで自分のやりたいことなどない、
自分を見失った…
それだけのことだ。


毎日を過ごすのは簡単だった。

笑って愛想さえ振りまいておけば
生徒からの人気者になり
それはそのまま教師としての評価につながる。


授業内容の確認を毎日行い授業にも手を抜かない。

生徒の質問にも丁寧に答えるように心がけている。


そんな日々を過ごし


そして気づけば年齢も30手前となった。

淡々と過ごす日々はあっという間だ。



そのうちいつか親が決めた相手と結婚するのだろう。

別にそれが誰だってもう俺にはどうでもいいことだ。


本気で人を好きになるとか、
大切に思うとか、

そういう感情すら虚無感だらけの毎日の中でもうわからなくなってきてしまっている。


喜怒哀楽なんて…。

多分、俺が今、人に向けている感情は本物ではない。


そう、いつしか自分の本当の感情がなくなったような感覚に陥っていた。


それでもこころのどこかで誰かを求めているのか

それともそのすべての憂さを晴らすためなのか

いろんな女性と付き合ってきた。


誰が本命?

今の恋人は誰だ?


そんなことすら自分でわからなくなっている。


何人もの女性が俺の前に現れそして消えてゆく。

周りを欺いて生きていくことくらい容易い事だった。


誰もそんな本当の俺を知らない。


先生、先生と慕ってくるたくさんの
生徒の中でただひとり遠くから俺を見る雨霧 葵だけは…。


彼女だけは他の生徒とは違う。


だから
彼女には無関心を決め込むのが一番いい。