「……来ないね」

週末のお昼。普段なら、客は来てもいい頃だというのに、開店してから一人として来ず。
ため息をついて、洋子は机に突っ伏した。グラスを拭いていた烏丸もまた同じような表情だった。

「あと少しで閉店だ」

時刻を確認し、冬矢は小さな声で言った。誰も来ない店。肌で感じる疑惑。その一つ一つの感情に、もうすでに精神は押しつぶされそうになっていた。笑顔も弱く、全員が黙り込んだ。


その時に、ようやく戸が開く。
客かと思い、顔を上げるが、それは違っていた。そろそろ来る頃だろうと思っていた。あれだけ騒がれていたのであれば、冬矢の所に必ず来ると思っていた。男は、警察手帳を見せる。

「魁人……やっぱりお前か」

「冬矢、やっぱ御上に逆らえねぇわ」

夜の居酒屋の常連としてこの刑事は良く来ていた。
天野魁人。妖怪の中ではきわめて弱い部類に入るが、名前だけは誰でも知っている妖怪。
天邪鬼。反対の事をいつもいい、人を惑わせてからかう鬼。彼はいつもの笑みを浮かべていた。

「いいよ。ついてく」

腹をくくり、冬矢は天野に連れられて店を出た。顔は、笑顔だが、どこか物憂げに見え、店員たちは胸を締め付けられるような感覚がした。


店を出ると、フラッシュを一つ浴びた。目線を向ければ、そこにはカメラを手にした白峰が立っている。レンズ越しの瞳はにじんではいるが、こぼれてはいなかった。
まっすぐ、冬矢だけを強い目で見ていた。
店に通い詰め、自分の発言一つ一つに大きく反応を示す女はそこにいない。
そこにいるのは、スクープだけを追い求める一人の記者だ。

眼は1秒の間だけ合った。だがそれも、カメラ越し。
思わず目をそらし、すぐに車に乗り込んだ。

「…………半妖は、不便すぎる」

頭を窓に預け、うつむいた。その声は震えて、前髪で隠れた顔からは、一筋の雫。
妖怪としてなら、人の持つ悲しみや怒りや恐れは、歓迎すべきものだ。
だがそれは半分人の冬矢にとっては、気を抜けば押しつぶされてしまうほどに大きな負の感情となって、心にのしかかっていた。

「……まっすぐ、署に向かう」

天野はミラー越しにそんな冬矢の姿を見て、言った。
それに冬矢は答えることがなかった。