妖怪は本来、人から『畏れ』という感情から産まれる。
単純な恐怖から始まり、畏怖、畏敬、さまざまな感情から、妖怪は妖気をもち、存在を持つ。人が病を悪魔としたように、空想のキャラクターに対する感情が集まり、具現化するとされる。この世に人間が誕生した瞬間に、感情というものが存在した瞬間に妖怪もまた存在を持つ。

だがしかし、室井の追究はそれでは終わらない。妖怪は闇に隠れるものでなければ恐怖を持たない。すべてを知れば誰もそこに感情を見出そうとしない。隠れているからこそ知りたい。隠れているからこそ怖い。

雑誌では、追究をせず、存在だけを書いて、読者にその存在を心に植え付ける。そうすることで妖怪により多くの感情をいだき、それが妖怪の糧となる。
追究される事は『畏れ』の消失につながる。

自分がいい例だ。秀明は陰陽師であるがために妖怪のすべてを知っている。そのために、妖怪に何の感情も持たない。妖怪を妖怪としてでなく、一つの存在としてみているのだ。『畏れ』はない。だからこそ、妖怪と対等に戦う事が出来る。

要するに、
妖怪のすべてを知ろうというオカルトオタクは妖怪は好まない。
妖怪をいないと信じて言い聞かす人間が妖怪は好む。
どちらがより妖怪を恐れているのかは、わかりきっている。

いつか、室井に追究する記事を書くなと言っておかなければならない。
冬矢が人の目から妖怪を隠すのも恐れられるためだ。

秀明も、わざと存在だけの情報を示して、人の感情を妖怪に惹きつける。
それが都市伝説投稿コーナーや怪談特集の真の狙いだった。