午前0時になる、少し前。
あたしは静かに寝室を抜け出し、薄手のガウンを羽織る。
音を立てないように注意して窓を開けると、ひんやりとした風が頬を撫でる。
「…さむ」
ぽつりと零した声と、白い息が混ざり合う。
窓枠に手をかけると、あたしは近くの木に飛び移った。
枯れかけているその木は、僅かに軋んだ音を立てた。
あたしはその木の枝に立ったまま、耳を澄ます。
「…よし」
辺りは静まり返っていて、誰かがいる気配はない。
あたしは木の枝から、近くの塀を一気に飛び越えた。
高さ2メートルはある塀を飛び越え、あたしは難なく着地した。
顔を上げると同時に、瞳に映る満月と…人影?
「―――聞いてた通り、やんちゃなお嬢様だ」
逆光で顔は見えなくても、はっきりとわかった。
その人物は…笑っていた。
午前0時を告げる鐘の音が、静かに響き渡った―――…
*‥‥‥‥‥
「―――どうゆうこと!?」
ガタン、と盛大な音を立て、机が揺れた。
あたしは握りしめた拳を震わせながら、目の前にいるパパを睨む。
パパはそんなあたしの威勢に怯むことなく、にこにこと笑顔を浮かべている。
「だから、言ったろう?咲良の世話係を雇ったんだよ」
何の悪びれもなくそう言うと、パパは後ろを振り返った。
「本日付で働いてもらうことになった、柳 睦臣くんだ」
「よろしくお願いします」
パパの後ろから現れたのは、20代くらいの男。
羨ましいほど綺麗な黒髪は、適度に癖があって、それでいて自然に整っている。
スラッとした長身で、鼻筋はスッと通っていて瞳はぱっちり二重。
彼を取り巻くオーラは、なんかキラキラしてる。
…一言でいうなら、かなりの美形。
―――だけど!
「あたしは世話係なんかいらないって言ったでしょ!? それにこの人嫌っ!!」
びしっ、と彼を指差すと、その張本人は何故か笑顔。
「…やだなぁ、お嬢様。僕、何か気に障ることしましたっけ?」
殴りたい。
とっさに沸き上がった衝動を、何とか抑えつける。
代わりに、目の前の相手を睨んだ。
「柳…だっけ」
「はい」
「あんたにあたしの世話係は務まらないわ」
これまで、あたしには世話係がいた。
でもあたしの性格についていけず、みんなすぐに辞めていく。
最近やっと自由になったのに、こんな嘘くさい笑顔の世話係が就くなんて…絶っ対、嫌!!
そう忠告したにも関わらず、柳は何故か、楽しそうに瞳を細める。
「大丈夫ですよ?ジュリアの世話もこなしましたから」
「は?…ジュリア?」
眉をひそめたあたしに、柳は頷いた。
「気性の荒いやんちゃな猫です」
…この男は、そんなにあたしに殴られたいの。
ふと、夜中の出来事が記憶に蘇る。
『―――聞いてた通り、やんちゃなお嬢様だ』
あのとき、あたしを待ち伏せていたのは間違いなく柳で。
あたしが口を開く前に、「また後で」とか言っていなくなった。
…で、朝になったらこの状況。
夢かと思ってたのに、最悪なこの現実。
「…パパ。こいつクビにして」
「おいおい、咲良…」
「だってあたしのこと猫扱いした!!」
しかも気性荒いって!
初対面なのに、失礼にもほどがあるでしょ!?
下手したら仕事がなくなるかもしれないっていうのに、柳は相変わらず笑っていた。
その余裕が、余計に頭にくる。
「お嬢様。なら一ヶ月、僕に時間をください」
「何言っ…」
「その間に、お嬢様に気に入ってもらいます」
…本当に、笑顔で何を言ってるんだこの男は。
呆れて返す言葉も出ないあたしに、柳は妖艶な笑みを向けた。
その瞳が獲物を捕らえようとする獣に見えて、体がすくんだ。
「あなたに魔法をかけてあげましょう。―――シンデレラ」
その言葉は、呪文のようにあたしの心に入り込んできて。
まるで解けない呪いをかけられたように、全身が硬直する。
ねぇ、シンデレラ。
あんたは魔法かけられたとき、こんな気分だったの?違うでしょ?
これから起こる素敵な出来事に、胸踊らせていたんでしょ?
「…やれるものなら、やってみなさいよ」
残念ながら、あたしは大人しく魔法をかけられたりしない。
自分一人で何だってできる。
「あんたの魔法なんか、かかるわけない。お断りよ」
挑戦的なあたしの態度に、柳は微笑んだ。
「逃げられませんよ…お嬢様?」
このときから既に、あたしは魔法をかけられていたことに…
―――まだ、気づかない。
「………は?」
あたしの不機嫌な声が、部屋に響く。
いやだって、不機嫌になるにきまってる。
胡散臭い世話係がつくし。
その当本人が、目の前でわけわかんないこと言うから。
「だから、こんな問題もわかんねぇの?」
面倒くさそうにもう一度言い直したのは、間違いなく柳のはず。
でも…何?
「…はぁ。思ったより手強い…や、バカだな」
ため息つかれたこととか。
バカよばわりされたこととか。
それは今は置いといていいとして。
「…あんた誰?」
「柳 睦臣ですが何か」
いやいやいや、違う。
明らかにパパの前と態度が違う。
もしかして、これって…
「―――に、二重人格!?」
イスがひっくり返るほど勢いよく立ち上がったあたしに、柳は顔をしかめた。
「本当騒がしいな。…ONとOFFの切り替えが上手いって言えよ」
認めた。
二重人格って、認めた。