母がいたら、と思う。


遠足のとき、みんなはお母さんの手作り弁当なのに、私はコンビニのおにぎり。


小学校六年生のとき、保健の先生が気をきかせて買ってくれるまで、ブラジャーをしたこともなかった。


そして、救急車で運ばれたあのときも……。


母がいてくれさえしたら、私はこんなに傷ついたり後ろめたい思いなどしなくて済んだのだろう。




母のことは、よく知らない。


ただ、『母』という言葉から膨らむイメージ

……女という性、家事をこなす健気さ、家庭に華やかさをもたらす笑顔、おおらかさ、娘の一番の理解者……

そういったものに、漠然と惹かれるのだ。


だからって、今すぐに母ができるとしても、そんなものはいらない。


私は、遠足のとき、ブラジャーが欲しくても恥ずかしくて言えなかったとき、

初めての生理で戸惑ったとき、そのときに母にいてほしかった。


夢の中で私を抱きしめて微笑む、あの母に助けてほしかった。


生まれたときから一緒で、つらいときも楽しいときも分かち合い、思い出を積み重ねてきた母を、私は望んでいるのだ。


だから、どんなに願ったって私の望みは叶わない。


母は私が四歳のときに死んだのだ。


平気だと思っていても、ときどきこうして思いをめぐらせてしまう。


形見の本の傾向からして、もしかしたら私の卑屈は母譲りなのかもしれないし、

実際に母が生きていたとしても私の期待しているような言葉はくれなかったかもしれない。


こんな「たられば」の話なんて、無駄なのだ。


無駄だと、分かっているのに。