モラトリアム-Ⅱ









が、視界に入ってきたのは、僕より一回りほど小さく細い手と、指の白さが映えるほど汚れた雑巾。
手から腕へ、腕から肩へ、肩から首へ、徐々に視線を上げていくと、そこには微笑む彼女が僕を見ながら微笑んでいた。

思わず、右手が止まった。
と、同時に脳も心臓も、自分を司る全ての機能が停止したような感覚に見舞われた。




「 」
「高橋くんはサイエンス部だっけ?」
「 え、 あ、まあ、 うん」
「夏になると星を見に学校の裏山登るのよね?いいなあ、うらやましい!」
「  そう?」
「うん、あたし星見るの好きなんだ!」
「そ、そっか」




こうゆう場合は、どうすればいいのだろう。

何か気の利いた言葉をかければいいのだろうか。
でも、その気の利いた言葉がわからない。

だから嫌なんだ。
こうなるのは目に見えてたんだ、僕は遠くで眺めてるだけでよかったのに。

ああ、もう、どうしよう。
体中の熱が顔に集中していくかのように、だんだんと顔が熱くなっていた。
そしてついに、耐えられなくなって彼女から視線を外して、それをまた机に戻した。

先ほどまで居心地の良かった空間が、一転して地獄と化した。
これ以上、彼女からなにか刺激を与えられると僕は壊れてしまうだろう。
もういいから、十分だから、早くここから去ってくれ。




「 あ、 あのさ、ここは僕がやっとくから」
「え?いやいや、それは悪いよ」
「 いいよ、田中さんは部活、あるんだし」
「 うーん、 じゃあ、お願いできる?」
「 うん」
「 ありがとう!高橋くん! じゃあ、また明日!」
「  また明日」




彼女が走り去り、理科室の扉を閉める音を確認してから、大きくため息をつき机にのめりこんだ。
まだ、胸が苦しくて呼吸が安定しない。

ふと顔をあげ、目に入ったのは先ほどまで彼女が使用していた雑巾。
それをそっと自分の元に寄せて、それに自分の手を重ねてみた。

まだ温かい、彼女の痕跡がそこには残っていた。