大輔の瞳に
もうあの時のような不安の色はなかった。



きっと
こうして何度も肌を重ねる事で
大輔の不安は消える。

それなら
こんな体、どうなってもよかった。


あたしはもう
誰も傷付けたくない。









「そう言えば……。」

「ん…?」



事を終えた大輔が
あたしの頭を撫でながら呟いた。





「海の音がした。」

「え……?」


海の音…?



何の事を言ってるのかわからないあたしに大輔が続ける。





「さっきの電話だよ。何も話さなかったけど、波みたいな…海の音がしてた。」










海の音。




それは
あたしが今一番、聞きたくない波の音―…







静かな部屋に
あたしは大輔を起こさないよう服を着た。





どうしてあたしは
服を着てる?


あたしはこれから
どこに行こうとしてる?





だけど無意識に体が動いてて。



行く先は
わかりきってた。






『ごめん、今日は家帰るね。』


そう書いた紙切れを
テーブルに置いて大輔に視線を向ける。



暗闇で慣れたあたしの瞳が
寝息を立てる大輔を捕らえた。






ごめん。
ごめんね、大輔。



もう裏切らない。
不安にさせない。


そう、誓ったのに…







ぎゅっとバックを握り
あたしは音を立てないように部屋を出た。




静まり返った大輔の家は隅々までわかりきっていて


あたしは難なく玄関まで辿り着けた。





これから
あたしの未来は


どうなるのか





想像も出来なかった。





してはいけない恋。




それは決して結ばれる事のない
永遠で。




その先に
輝く未来があるのだろうか。






誰かを傷付けて
自分も傷付いて



それが恋だと言えるのだろうか。






だけどあたしは欲しい。




それでも、欲しいと思ったの。







最初から決まってた。



こうなる事は


きっと運命なんだ。







傷付いても構わない。



誰を傷付けても
もう構わないと思った。








それが
どんなに悲しい恋でも



それであなたを
手に入れられるのなら。







反対車線を横切る車のライトが眩しい。



足早に過ぎる景色を
あたしはただぼんやりと眺めてた。






あたしは今
あの海岸へと向かっている。


きっと
そうくんが待ってる。





あたしの事を――…







「240円のお釣ね~。」

「ありがとうございました。」



運転手にお釣を受け取り
あたしはタクシーを降りた。



微かに香る潮風の匂い。


懐かしい、海の音。






高鳴る鼓動に深呼吸をして
あたしは海岸へと足を向けた。










『×××海岸まで。』
そう告げたあたしに運転手が不審に眉を上げた。



当たり前だ。
こんな夜中に女一人で海に行くなんて
どう考えてもおかしいだろう。



だけどあたしは

『×××海岸まで、お願いします。』と念を押して口を開いた。




もう、気持ちは一つ。


あの海岸に
そうくんは居る。






「……やっぱり、居た。」



その言葉に
ゆっくりとそうくんが振り返る。


そして目を丸くしたそうくんは

「何で……。」と小さく呟いた。




「何でって、そうくんが呼んだんでしょ。」

そうくんの隣
防波堤に腰を降ろした。




「そうだけど…。だって…彼氏と居たんじゃねぇの…?」


まだ驚きを隠せない様子のそうくんは
戸惑いながらも言葉を繋いだ。






「出て来ちゃった。」

「え?」

「だーかーらー、出て来たのっ!」



そう言ったあたしは
防波堤から飛び降りて砂浜を歩いた。




ザザン…と波が打ち寄せる。



まるで
何かを求めるように
激しく、海が鳴く。






「そうくん。」

あたしの呼び掛けに
そうくんはあたしを見据えた。





「好きだよ。





大好き。」





恋しい人に会いたくて
自分を知ってもらいたくて
海を捨てて人間になった人魚姫は



泡になった時
どれくらいの悲しみを背負っていたのだろう。






「海音ちゃん…。」



あたしの告白に
そうくんがさっきよりも目を丸くしてた。


波があたしの足元で
ちゃぷんと音を立てる。





「あたし、決めたの。」


少し離れてるそうくんに大きな声で言った。




「あたし、そうくんと一緒に居たい。



そうくんと、歩いて行きたいの。」


例え
世界中を敵に回しても


あなたと一緒なら。






「まだ、あたしの事好きでいてくれてますか?」



例え
泡になったとしても



あなたを想い続けていられるのなら。





どんなに傷付いても



もう、迷ったりなんてしない。






大輔に抱かれた夜に
あたしは全てを裏切る覚悟を決めた。




最低なあたしに
どんな罰が下るのか。


でもいいの。
けなされても罵られても


あたしはあなたを好きでいたい。





もう、嘘はつけない。







「海音ちゃん…。」


防波堤から砂浜へと歩きだしたそうくんが
あたしの前に立つ。




ぶつかる視線に
そうくんが微笑んだ。


そして―――…





優しくあたしを抱き締めてくれた。


懐かしい香り。
あたしのマフラーに
残っていた、そうくんの香水。





「…好きだ。すげぇ、好き。」

うん。


「ずっと…こうしたかった。」

あたしも。


「だけど苦しくて…。傷付けたくなかったんだ。」

わかってる。


「もう……、何もいらない。海音ちゃんさえ居れば、それで…。」

うん、あたしもだよ。



あたし達は
ずっと同じ気持ちだったんだね。
ずっと、二人は苦しんでたよね。



やっと、言えたね。


好き。
やっと、繋がった。





空が白み始めて
いつの間にか地平線の向こうに朝日が顔を出してる。



あたし達は手を繋ぎながら長い海岸を歩いて居た。



今思えば
手を繋ぐのは初めてで

キスをしたあの日を思い出したあたし達は

『順番、逆になっちゃったね。』なんて笑い合った。





幸せで

これ以上ないくらいに幸せすぎて
あたし達は時間が過ぎるのを惜しみながら言葉を交わす。



春の海。
そして朝焼けの海。




周りには人一人居なくて


まるでこの世にあたし達二人きりになったみたい。




この優しく鳴る海に
あたし達を咎める人は居ない。


蒼い海は
まるであたし達を祝福してくれてるように感じてた。





時間が止まればいい。


生まれて初めて
そう思った。





一通り海岸を歩いたあたしとそうくんは
再び防波堤へと腰を掛けた。


途中、海岸を抜けて
自動販売機で買った温かい紅茶を手に。





夢を
見てるみたいだった。

こうして二人
肩を並べて笑い合える。



そんな事一生ない。

そう思っていたから。




もう、我慢しなくていいんだよね。


この温かい手のひらに
自分の手を重ねていいんだよね――…








―ねぇ。


―ん?どうした?


―いつから、あたしの事好きでいてくれたの?


―何、急に。


―だって知りたいんだもん。


―じゃあ海音ちゃんは?


―もう、海音ちゃんって呼ばないでよ。


―はは。ごめん。呼び捨て恥ずかしいじゃん。


―もう何度も呼んでるじゃない。


―そうだっけ?


―そうだよぉ。






―海音。