「海音ちゃん!」
愛しい人の声が
波の音と共に響く。
「海音っ!」
捕まえられた腕が
引き寄せられるようにあたしはそうくんの胸に包まれる。
「海音……。」
ダメだよ。
もう、これ以上
罪を重ね合うのはやめよう。
「俺……。」
ダメ…。
もうやめて。
「海音の事――…」
やめて…。
それ以上、言わないで。
「好きなんだ――…。」
ドサッ!
そうくんの言葉と同時に
あたし達の体は離れた。
「海音……?」
正確には
あたしがそうくんを
突き飛ばした。
『好きなんだ――…。』
世界で一番
幸せな告白は
世界で一番
残酷な告白だった。
コンビニでバイトを始めたばかりの頃
あたしは欲しいワンピースを見つけてしまった。
今思えば
何であんなの欲しかったんだろう。
そう思うけど、あの時はすごく欲しかったんだ。
悩んで悩んで
結局あたしは
買おうと思えば買えたそのワンピースを
着る事もなく
お店のショーウィンドーを去った。
「さようなら。」
涙は乾いてた。
あたしは十分、涙を流したもの。
もう、これで終わり。
「海音…!」
背中に響く呼び掛けに
あたしは足を止めずに歩く。
たまに砂浜に足を取られそうになった。
あたしにとって
そうくんはあのワンピースみたいな物でしかない。
今は欲しくても
きっとこの選択が正しかったと
いつの日か思う時が来るだろう。
繋いだ糸は
あたしの手によって
見事に二つに別れてしまった。
もう、愛しい人の声は
聞こえない。
『好きなんだ――…。』
一月は寒い。
いつまでも
温かい毛布に包まれていたい。
そう思うのはあたしだけじゃないはずだ。
「海音、いつまで寝てるの?遅刻するわよ?」
「今、起きようとしたとこだよ。」
わざわざ部屋を覗くお母さんに
刺々しく言い放ったあたしは
渋々布団から這い上がった。
寒……っ。
あまりの寒さに
あたしはカーテンを開けてみた。
「今日一日雨だって。寒いから、温かくして行きなさいよ?」
「わかったってば。着替えるから出てって。」
あたしの言葉に
お母さんは少しだけ溜め息をはいて出て行った。
手のかかる娘に
お母さんの苦労が目に見える。
今日は
進路について
担任の浦吉が一人一人面談するらしい。
憂鬱さが
降りしきる雨と共に流れ落ちた。
うちの高校は
クラス替えを2年生の時に一度やるだけで
所謂、3年のクラスは2年の時と変わらないのだ。
もちろん、担任も。
「沖村、進路希望の欄空白だぞ。何かやりたい事ないのか?」
「…ない。何もない。」
雨は止まない。
静かな教室に
浦吉がうーん。とうねった。
「まぁ焦って決めても仕方ないしな。ゆっくり考えて、自分に見合う将来を選びなさい。」
「…浦吉、先生みたい。」
「アホ!先生だっての!」
相変わらずジャージを着てる浦吉は
白いノートにボールペンを走らせる。
「ねぇ。」
「ん~?どうした?」
浦吉は視線を下に向けたまま
まだ何かを書き取っている。
「奥さんの事、好き?」
突拍子もないあたしの問い掛けに
浦吉が顔を上げた。
「好き?奥さん。」
「それは進路に関係あるのか?」
「ある。すごく。浦吉の答えで、あたしの未来が決まる。」
そりゃ責任重大だ。
そう言った浦吉がペンを置いてイスにもたれ掛かる。
廊下で
誰かが歩いてる音が聞こえた。
「まぁ…そうだな。好きじゃなかったら結婚しないだろ。」
一生一緒に過ごすパートナーだから。
続けて話す浦吉に
あたしは
ふぅん。と答えた。
じゃあ……
「じゃあさ、もし…もし奥さんが親友の彼女だったら…
それでも好きになった?それでも、想いを貫き通す?」
「おい。さすがに進路には関係ないだろ、それ。」
指を器用に動かして
ペンをクルクルと回す浦吉。
「いーの。答えてよ。先生でしょ?」
昔
小学生の卒業文集に
『幸せなお嫁さんになりたい。』なんて
あたしらしくない事を書いた記憶がある。
あたしの幸せ。
それは叶えられる事によって
誰かを不幸にする。
小学生の頃は無邪気で
こんなありきたりな夢にあたしは
本気で叶えられるものだと思っていた。
「あのなぁ。俺はお前だけの先生じゃないの。」
「今は、あたしだけの先生でしょ。いいじゃない、減るもんじゃあるまいし。」
あたしの達者な口に観念したのか
浦吉は溜め息をはいた。
「何だ、お前田村の彼氏の事が好きなのか?」
「ち、違うよ!あたしじゃなくて!友達。」
ふぅん。と笑う浦吉は
全てを見透かしたような目であたしを見つめる。
「まぁ…そうだな…。」
ポツリと呟いた浦吉は
急に真剣な面持ちであたしを見据えた。
「お前は?」
「…え?」
「お前は、どうしたい訳?」
思いもよらない浦吉の質問にあたしの目が宙を舞った。
どうしたい?
あたしは、どうしたい?
わからない。
「わからない…。だから聞いてるんじゃんか。」
「はは、そうか。そりゃ悪かった。」
立ち上がった浦吉に
あたしは視線をあげた。
「例えばさ。その友達がその親友の子とは全く赤の他人だとして。」
あたしと
香苗が赤の他人…。
そう願った事は何度もあった。
「そうしたら、お前の友達はきっと、その彼を好きにはならなかったんじゃないかな。」
雨が
いつの間にか止んでいて柔らかい木漏れ日が教室の窓に影を映した。
もし
あたしが香苗の親友じゃなくて
そのままそうくんに出会っていたら
あたしはそうくんを好きにはならなかった?
「どうして…?どうしてそう思うの?」
「…どうしてだと思う?」
「もぉ。あたしが聞いてるんだよ?」
埒があかない浦吉に
あたしは口を尖らせた。
「俺も。そうだった。」
「え?」
窓の外に目を移す浦吉に
あたしは視線を横に向けた。
「俺の奥さん、親友の彼女だったんだ。」
驚いた。
世界が一変して白黒にぼやけて見える。
まさか、浦吉の奥さんも
そうだったなんて…。
鼓動が音を立てる。
痛みとは
同時に苦しさをも与えてくる。
それは、あたしが
生きている証拠。
「驚いたか?」
「…そりゃ…ね…。だって浦吉、悩みなさそうに見えたから。」
「失礼な奴!」
浦吉のデコピンに
あたしは目を瞑った。
「暴力反対ー。」
「これは暴力じゃない。愛情表現だ。」
そんな愛情表現、いらないんだけど。
そう口にする前に
聞きたかった。
「ねぇ…。その親友と浦吉は…どうなったの?」
「どうって…。どうもしないよ。」
どうもしない?
親友の彼女と結婚したのに?
そんなサラリと済ませる問題なの?
それとも
これが女と男の友情の違いなのかな。